マレーシアのロックダウン

感染者0のサバ州は3月中旬まで、何一つ変わらない平和な生活を送っていました。
10日頃にお隣ブルネイ での感染報告があり、サバに入ってくるのは時間の問題でしたが、ここからが予想以上に早かったのです。

マレーシアでの引っ越し。
コロナウィルスとロックダウン生活記録。

3月12日

1人目の感染者が見つかりました。
東海岸沿いの町です。

2月27日~3月1日の4日間、クアラルンプールにあるスリ・ペタリンモスクでイスラム教の団体「ジャマアト・タブリーグ」の集会に参加した人だった。
サバからは300人を超える人が参加したとも言われている。
なんとその数、国内国外含めての1万6000人とのこと。
この集会は、衣食住を共に過ごし、お祈りを行う密閉空間で行われていて、マレーシアの感染者の6割と発表されている。
ちなみに、同じくこの集会に参加したブルネイ人が帰国後先に発症していた。

翌日、50人以上で集まることが禁止されます。

特に、お祈りのためにモスクや教会へ出向く人が多いマレーシアでは人が密集する事を禁じました。
イスラム教徒は悪魔の侵入を防ぐために、密集してお祈りするのだそうです。

ここで私達も17日に予定していた送別会の人数を減らさなければならない事態に直面。
このタイミングでpersk州で申請していたMOE letterが全て揃う。
サバのビザをキャンセルするため、学校にイミグレーション宛の手紙を作成してもらう。

14日土曜日

午前中だけ空いている郵便局に荷物を発送しにいく。9箱。
それ以外は平和な週末。

15日日曜日

公的機関も閉まっている日曜日、プライベートビーチのセパンガール島へ。
数名宿泊客はいたものの、当日島に入ったのは我が家だけ。
貸し切り状態。

人が来なくなった島は浅瀬がゴミだらけ。
くらげが多いこともあひ、ボートを借りてゴミ拾い。

文字通り最後の休日。

16日月曜日

心配だったが、新しい警告は出ず、滞りなく卒業式が開催されました。
我が子も卒業生の1人なので、平常通り式が執り行えたことには感謝です。
卒業を待つためにインターの編入を1ターム遅らせていたので。

引越しまで1週間を切り、念のために早めにイミグレーションに行きました。
ビザのキャンセルをする必要があるのです。
元々スチューデントビザは学校に付随するため、学校を変わる場合はビザの再申請が必要になります。
特にサバ州は特別自治権を持っており、サバでしかキャンセルができないと言われています。

やたらと小出しにいちゃもんをつけられて、2時間経過。
午後4時になると、担当者が
「あたし4時だから帰りたいのよね。この人にやってもらうから、あとはこの人に言って」
とさっさと帰っちゃいました。

書類のチェックからやり直し、、、
それでも、もう一度来ることを考えたら時間を無駄にできないので、ひたすら待つ。
午後5時半。やっと手続きが終わりました。
が、支払い窓口閉まってるから、明日来てね、と。
明後日でもいい?と聞くと、いや明日じゃなきゃダメだ、との返答。
結局2日必要になってしまった。

その日の夜、2日後の18日から22のサービスを除く全ての店や仕事、学校の3/31まで停止命令が出る。

3月17日

車を船で送ることを予定していたが、船の日付が早まり17日の9時半に出ることになっだけことこと。

運輸は許可されたサービスの1つ。
港まではおそらく2時間ほどかかるため、18日の出航。
朝、子供を学校に送り車を届けに行く。

離任式が終わった11時、とりあえず2人を家に置いてイミグレーションへ向かう。
感染者が絶対いるんだろうな、と思わざるを得ない状況。

支払いを済ませてなければ昨日の手続きはなかったことにできるかもしれない!
淡い期待を抱いて昨日の担当のおばちゃんに聞いてみる。
「だから何度も聞いたじゃない!ほんとにキャンセルするの?って」
「だって学校が閉まるなんて知らなかったんだもの!」と泣きついたが、処理は完了されていて、
「もう切れてるわよ。スペシャルパスを1ヶ月だしてあげるから」
とのこと。
仕方なくお金を支払いスペシャルパスをもらう。

印刷された紙がホチキスで止められてるだけのお粗末なスペシャルパスでした。

夜、先生抜きの送別会を開催。
そこで、マレーシアがロックダウンするというニュースに遭遇。

人の移動が原則禁じられた。
ポリスレポートがあれば州を跨いで移動できると教えてもらう。

3月18日

部屋の荷物を片付ける。
キッチンが片付かないので春休みは外食!と思ってたが、まさかの食いっぱぐれ。
買いだめたカップ麺で過ごすことになる。
食材買っても調理器具がなにもない。

ポリスレポートをもらいにポリスに行くが、もう必要なくなったとかでレポートを出してもらえず。
「今日飛べるよ。大丈夫!」
って言うけど、明日は?と聞くと
「明日は分かんない」そんな状況。

ここにかけて聞いてみるといいよと電話番号をメモしてくれた。
でも、今かけても数日後のことは誰にもわからないからとりあえずは保管。

前日夕方に発表があったポリスレポート。
ボルネオはさして困らないが、西マレーシアの人たちは州を超えられないと困る人が多い。
深夜までポリスに人が押し寄せ、50人どころではない密集を生み出してしまった。
対応しきれず、翌朝には不要にしたようです。
なんともお粗末な。

ポリスの用があっという間に済んだので、病院に行くことにした。
友人Aの友達がやってるクリニックを選択。
大きい病院は人が多く待ち時間も長い。
感染確率を下げるため、小さいクリニックを選択。

昼休みに電話したにも関わらず、快く午後一の予約をとってくれた。

健康観察をし、翌日にレポートをもらえることになった。

3月19日

まだまだ出てくる荷物をダンボールに詰めて、友人Tに郵便局まで乗せてもらう。
5箱追加で発送。

再びポリスによってもらうが、昨日と同じ電話番号を手渡される。
とりあえずかけてみたが一向に繋がらない。

恐らく対応はマレー午後なので、マレー語ができる友人Mに電話してもらえるよう頼む。

帰りに持ち帰りできるkedaiに寄ってもらい、昼ごはんをゲット。

友人MがKLのホットラインにまで電話をかけてくれました。(繋がらない中)

⚫︎ペラまでの移動は可能
⚫︎どこにも立ち寄らずダイレクトに行く
⚫︎14日間は人混みに行かない 

ということで、自分の中でもペラ行きにGoが出せた

午後3時にオーナーがチェックにきて、デポジットの返却。
電気と水道は、オフィスが閉まってる関係で払い切れないため、計算してもらいユーティリティから差し引き。

友人Iに手伝ってもらい、AnBに引越し。
おにぎりと麦茶の差し入れを頂く。
人生で1番おいしいおにぎりになると思う。

目の前にスーパーがあるので、食べられそうなものを購入できた。

夜、帰任する先生の見送りに空港へ行く。
念のため、予約した21日のフライトチェックをする。
「今はまだあるけど、多分このフライトはなくなる」とカウンターの人の返答で、
確実に飛びそうで、空きがあって1番早く飛べる便に変更をする。

3月20日

3/21チェックアウト予定のAnBを23日まで延長してもらう。
ポートクランまで自分で取りに行く予定だった車を、ペラまでドライバーに運んでもらう手続きをとる。

新しい家のオーナーが、KLIAからダイレクトで家まで連れて行ってくれるドライバーを見つけてくれた。
予約と状況、詳細を伝える。

できるだけのことはやったので、とりあえず休息。
友人Yの家に遊びに行かせてもらうも、私たちが入った直後、コンド内に外部者が入るのを禁止する連絡が入った。
ゲートでレジストレーションをしたわずか8分後、、、
通のお手伝いさんも不可となってしまい、ちょっと罪悪感。

3月21日

見送りをお断りした友人Aが、よかったら遊びに来てと誘ってくれて、お邪魔することに。
状況打開策を話しながらも映画をのんびり見て5時半帰宅。
この日から全ての店が午後5時で閉まることになってしまったため、またもや夕飯食いっぱぐれ。

3月22日

サバ最後の日。
最後のMAS成田行きにのる友人を見送りに空港へ。
そこで翌日のチェックインを完了する。

スーパーに行くも、1家庭1人のみ。
店に入る前は手の消毒と、レジも1m間隔にテープが貼ってあり、前の人に近づけなくなっている徹底ぶり。

友人Nの経営するラーメンの配達をお願いし、最後にラーメンを食べて翌日に備える。

3月23日

朝、クラブが捕まらないことを想定し、車の大きい友人Aに空港まで乗せてもらえるよう頼んでいた。
7時半にピックアップ。
こんな状況下でも先生方とコタキナバルに残る友人数名が見送りに来てくれた。

警察の交通規制も日に日に厳しくなっていて、空港に行けないという友人は、朝ごはんを出発に合わせて届けてくれました。

サバ出国

日本に行くのか?
いや、ペラに行く
サバのビザをキャンセルしてしまったから、ここに長くいられない

学校からのオファーレター、ペラのイミグレに提出する書類、車を送った領収書、荷物の領収書を片っ端から見せて

KLIAに迎えが来ているから、ダイレクトにペラに入る

と説明。
OKしてくれて第一関門通過。

第二関門 KLIA
KLIAは健康診断書がないと入国できなくなってる、とドライバーから聞いていたので、かなり覚悟していた。

出す方より入れる方はより厳しい。

が、、、、荷物を拾い歩いていくと、あれ?空港でちゃうよ、、、
X線の荷物チェックがあったので、ここでチェックかと思いきや、国内線入国者はそのままスルーで空港を出て行けました。

拍子抜け。

KLIAの指定された場所までいき、無事にドライバーと会う。
荷物を積み、ノンストップでペラまで。

高速を降りた、タパーとカンパー入り口で検問があった。
もう1箇所はポリスがご飯休憩中でノーチェック。

町単位で封鎖に入っている。
感染者0のカンパーは、軍か配置され一層厳しかったが、ドライバーのおっちゃんがうまくまいてくれて通過。

無事に新しい家にたどり着けた。

隣に住むオーナーが、入居準備を完璧に整えてくれていて、箸から鍋やかんまで全て揃っている。wifiは共有させてくれ、テレビも繋いでくれている。
この状況だとありがたいローカルニュースが見られる。マレー語だけど。

夕飯まで用意してくれて、久しぶりにお腹いっぱい食べて熟睡。

4/6までは14日間の外出自粛のため、敷地から出られない。

3月24日

食べるものが何もなく、朝昼晩と食事のお世話になる。
この人たちがいなかったらどうなっていただろうか。

デリバリーを頼もうと思ったが、配達員の多くはムスリムだから危ないわよ、ということで、お言葉に甘えることにした。
華人の街は徹底している。
市場に買い出しに行ってくれる友達も華人。さすが。

オーナーのご主人が、ゴミ捨て場から自転車を拾ってきて、次男用にキックボードにリメイクしてくれた。

3月25日

めでたく誕生日を迎える。
朝からたくさんメッセージを頂き、支えられて生きてることを改めて痛感。

車を運んでもらった会社からメッセが入る。
国からの要請で、28日から船もとまるらしい。
ということで、クランポートに着いた後、車を持っていけないとの連絡が入る。
物流が止まる。

3月26日

サバは関係ないが、バスや電車の公共交通が時間短縮に入る。
検問もより一層厳しくなっているよう。

送った荷物のうち、13箱が届く。
1つソースが圧力で溢れてしまい、ダンボールが破損した様子。
手元に届いたときは、使えるものだけキレイに洗われて、ゴムでさらに頑丈に止められて、新しいダンボールに入ってきた。
Viva Pos Laju

3月26日

学校のビザ担当から連絡が入る。
人が密集するイミグレーションが閉まるらしいのだ。
そして。3/31までとされていたロックダウン、4月14日まで延長となった。

イミグレーションとは、スペシャルバスの延長ということで話しがついているとのこと。
ビザが切れるのが4/15。
学校に対応を任せるほかない状態。

24日から31日を待たずに申請して欲しいと頼んでたけど、まぁ間際の手続きでした。
3/31で治ると思ってたのかしら、、、

3月27日

残りの1つの荷物が到着。
オーナーがスーパーに買い物に行ってくれ、買いだめしてきてくれた。
市場で買ってもらったものもあるので、しばらくはなんとからなりそう。

華人の街だけど、やはりスーパーや市場には豚肉は置いていない。
サバが特殊なのを改めて痛感。

RM200以上で代理買い物してくれるという情報をゲット。
豚ミンチと豚スライスがあるからこれは頼みたいところ。

ただ、物流が止まってるのは敷地から出なくても分かり、玉ねぎがない、ガーリックがない、そんな様子でした。

あと3週間、先は長い。
つづく、、、



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