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余韻を残すということ

余韻とは

最近、余韻という言葉をよく耳にします。
余韻とは、鐘をついた時などの、あとに残る響き。転じて、あとに残る味わい。言外の余情。
つまり何かが終わった後に感じる感覚ことを指します。
私たちが体験したことや感じたことが、心の中に残り続けるような感覚です。
しかし、この余韻は、ある程度の期間が経過すると薄れていくものです。
そんな中、私たち写真館が提供する余韻は、長い時間を経ても薄れることがないとは言い難いものです。
このことについて、最近ふと考えていたところ、ある出来事がきっかけとなり、自分の考えが深まったので、今回はそのことについて書いてみたいと思います。

ある日、僕はディズニーランドに行きました。
それは、写真館で支払う金額と同等の金額を使って、大人が楽しむことのできるディナーショーに参加するためでした。その日はとても楽しく過ごし、心地よい余韻に包まれて帰路につきました。しかし、帰宅後、あることに気が付きました。ディズニーランドで感じた余韻は、写真館で感じる余韻とは大きく異なっているということです。

元々写真館での余韻というのは、それほど長くないと僕は感じていました。しかし、ディズニーランドでの余韻は、その場にいた時間だけでなく、その後も長い時間を経ても残り続けるようなものでした。
それに比べると、写真館での余韻は、一瞬輝いた思い出が、その場から離れた瞬間に薄れていくものであると感じました。


余韻とは何か?

そこで僕は、余韻とは何なのか、どういう時に起こるのかということを考えてみました。
映画や小説、漫画、ドラマなど、様々なメディアで余韻を感じることがあります。それらを共通点から考えると、人、モノ、コトなどの様々な感情が同時に発生したときに、余韻が生まれるのではないかと思いました。
つまり、映画だとしても、作品内のキャラクターの思いだけではなく、原作者の思い、監督の思い、時代背景、それを見ている自分の思い、その作品を見ている不特定多数の思い、比較される作品との関係などなど、挙げればキリがありませんが、それらは多ければ多いほどいい。
それらの条件が重なる作品や体験は、必ずいわゆる「ロス」が起こったり、人と話したくなったり、人の意見が聞きたくなりSNSを検索したりする余白があります。
そして、それを世の中では「エモい」と呼ぶのだと思います。


エモい

では「エモい」とは、どういう時に起こるのでしょうか。
僕はそれは過去の経験や思い出、様々な思いに紐付いて、その瞬間に感じる感情が強くなることによって起こるのではないかと感じます。
写真館でいうと、子どもの頑張った思い出(子どもの思い)、それを微笑ましく見守る親(親の思い)、それらを自分の過去と重ねる祖父母(祖父母の思い)など沢山の感情が重なります。
つまり、新しい最新のものよりも古いもの(過去の体験や思いに紐付きやすいもの)の方が、エモいと感じることが多いのだと思います。
古いものには、過去の自分や周りの人たちとの思い出が詰まっているからです。
また、何度も繰り返し経験したことによって、深く感じることができるようになるのだと思います。

こういったことを踏まえて僕は、お客様に「エモい」体験を提供することが大切だと考えています。
ただ、それだけでは十分ではありません。私たちは、お客様とのコミュニケーションを大切にすることで、お客様が感じる感情や思い出に合わせた撮影プランや商品展開を提供することが重要だと考えています。
また、写真館に来たお客様が、その後も僕たちと繋がりを持ち、写真を振り返ることができるような取り組みも重要です。

私たちが提供する写真は、ただの記念写真ではなく、お客様の思い出や感情に寄り添い、大切に思うものを形にすることが私たちの使命だと考えています。
それらがいくつも重なった時に、エモさを感じ、長い余韻に浸り、人に話したくなる写真館になるのではと思っています。

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