見出し画像

磐船神社|河内国

御祭神

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(饒速日尊)
『日本書紀』や、『古事記』『先代旧辞本紀』などの古い書物によりますと、天孫饒速日尊は天照大御神の御孫神にあたり、大御神の御命令により、高天原より天の磐船に乗って河内國河上哮ヶ峯に降臨されました。のちに大和國に入り、大和河内地方を開発し建国の礎を築かれ、人々より天津神(天より来られた貴い神様)と崇敬された神様であります。また、饒速日尊が降臨に際して、天空より国土を望まれて「虚空見つ日本國」と言われたことが「やまと」という国号の始まりとされています。尊は高天原より持って来られた十種瑞神寳により鎮魂祭を行い、病に苦しむ人々を助け、死人をも蘇らせたと云われ、加持祈祷の根元として神道のみならず修験道、密教、陰陽道からも崇敬されて来ました。尊の子孫は物部氏と呼ばれる古代大和朝廷における最大最強の氏族を形成し、大連として代々の天皇に仕えており、ここ交野の地には肩野物部という一族がおりました。当神社は、饒速日尊が乗って来られた天の磐船を御神体として祀り、古来より天孫降臨の聖地として崇敬されています。当神社の創祀年代は詳らかではありませんが、磐座(いわくら)信仰という神道最古の信仰形態と伝承の内容から、縄文から弥生への過渡期まで遡ると考えられております。その後、物部氏を中心として祭祀が行われていましたが、物部氏本宗の滅亡後、山岳仏教や住吉信仰などの影響を受けるようになり、平安時代には「北嶺の宿」と呼ばれ、生駒山系の修験道の一大行場として変貌を遂げるに至り、境内には四社明神の石仏や、不動明王像が祀られ、弘法大師の作とされる磐船和讃が伝承されています。今でも神仏習合を色濃く残しており、例大祭には護摩壇を設けて大火焚祭が行われています。また、当社大岩窟は、古来より行場として知られ、現在でも多くの行者や拝観者が訪れます。

出典:境内看板

画像2

画像2

画像3

画像4

画像5

画像6

画像7

画像11

画像8

画像9

画像13

画像10

画像12

画像14

画像15

画像16

画像17

画像18

画像19

画像20

画像21


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?