能義神社 | 出雲国

能義神社(安来市)3

御祭神 天穂日命(あめのほひのみこと)

(配祀)大己貴命(おおなむちのみこと)

(配祀)事代主命(ことしろぬしのみこと)

(合祀)誉田別命(ほむだわけのみこと)

(合祀)経津主命(ふつぬしのみこと)

(合祀)国常立命(くにとこたちのみこと)

この神社の創立は古代にさかのぼる。出雲国風土記(七三三年・奈良時代)には意宇郡野城社と記され、延喜式(九二七年・平安時代)には野城神社と記されていることからも推測できる。そして、中世からは能義宮とたたえられ、安来市や能義郡はもとより、近郷に住む多くの人々からの信仰が厚く、出雲の国の人々は今でも杵築の大神をはじめ、熊野の大神・佐太の大神・能義の大神を出雲の四大大神と尊称している。御祭神である天穂日命は天照大神の第二子で、神性にたけ、神代の神傑とたたえられた神である。命は天照大神の命令により、国譲りの使者としてこの地においでになった。しかし既に、大国主命がこの地方で農耕を教えたり、医薬を授けるなど、人々の生活を安定させ産業福祉や国土開発に尽力されていた。その姿にすっかり魅せられた天穂日命は、大国主命を助けて国土の奉献と開拓に偉大な功績を上げられた。そして、大国主命がお隠れになった後も、自ら祭主としてとどまられ、いよいよ無窮の国礎を固められたのである。従って、朝廷のご尊崇も厚く、文徳実録(八七九年・平安時代)や三大実録(九〇一年・平安時代)によれば、幾度も御神階の贈進を受けている。また、戦国武将等の崇敬も深く、多くの社領寄進の記録も残っている。しかし、不幸なことに天災に遭い、右崖上の旧社地にあった社殿が焼失してしまった。現在の社殿は慶長十八年(一六一二年)堀尾氏によってこの位置に再建され、以来十五回の造営を経て今日に至っている。また、天穂日命は出雲国造千家・北島両家のご祖神であって、代々ご社参の古記があり、数々のご寄進の品や古文書が残っている。毎年十月十九日秋の大祭には、今もなお必ず出雲大社の千家宮司が親しく参拝される。

出典:境内案内看板

能義_出雲国風土記登場地

野城社(能義神社)出雲国風土記登場地

出雲国風土記 登場地

出雲四大神の一神「野城大神(ぬきのおおかみ)」を祀る

出典:出雲国風土記登場地みちしるべ

能義神社(安来市)13

能義神社鳥居(安来市)

能義神社(安来市)1

能義神社(安来市)2

能義神社(安来市)4

能義神社(安来市)大社造本殿3

能義神社(安来市)9

能義神社(安来市)10

能義神社(安来市)11

能義神社(安来市)12


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