見出し画像

ヴォイツェック

200 年前の殺人事件です。ゲオルク・ビューヒナーのドラマ「ヴォイツェック」やアルバン・ベルクのオペラ「ヴォツェック」のモデルになった下級軍人のヨハン・クリスティアン・ヴォィツェックは1821年6月21日に当時の愛人を刺殺しました。芝居やオペラで愛人の名前はマリーですが、実際には46歳のヨハンナ・クリスティアネ・ヴォーストでした。また、ヴォイツェックは1807年から別の愛人との間に子供が一人いました。
1780年にライプツィヒで生まれたヴォイツェックは若いころ両親を亡くし、1798年から各地を遍歴してさまざまな仕事をし、結局兵士に志願しました。1818年にライプツィヒに帰って、5歳年上の未亡人ヨハンナ・クリスティアネ・ヴォーストと付き合うようになりました。しかし、彼女は他の男たちとも戯れていたので、その二人の関係はうまくいかず、ヴォイツェックが彼女に対して暴力をふるったこともありました。その上、ヴォイツェックは精神的問題があり、自殺を考えて、またはアルコール中毒で幻覚がありました。例えば殺人事件の前に「ヴォ―ストさんを殺せ」という声が聞こえたようです。その出来事は芝居の中にも出てきます。
1821年6月21日ヴォイツェックはヴォーストと会う約束をしていたが彼女は彼に待ちぼうけを食わせ他の兵士と会っていました。ヴォイツェックは彼女を探して、見つけた後、数日前に買った短刀で刺殺しました。芝居やオペラではヴォイツェックが殺人の後、飲み屋で血まみれた服を見られたために湖へ逃げ、凶器を捨て、血を洗い落とそうとしますが、実際には彼はすぐに警察で自首しました。
ヴォイツェックは変った精神状況のために犯罪責任を問えると結論づけた鑑定書があり、それによって裁判で1822年2月22日に死刑判決を受けました。しかし、彼は精神異常の疑いでもう一度神鑑定が行われることになり死刑は延期されました。
しかし彼の精神異常は認められても、犯罪責任能力が確認されました。処刑執行はライプツィヒで1824年8月27日に行なわれました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?