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「三人寄れば文殊の知恵」とは個々人の客観性が必要である

"Please make sure that do not take them personally."

春になると、職員駐車場に兎が出没し、大学脇の雑木林からは鹿が顔を時折覗かせる。
秋になると月に1,2回の頻度で、熊遭遇に対する注意喚起メールが全学生宛に、事務局から一斉送信される。
そんな東北の山奥の大学で勉学に励んでいた。

"Those opinions are just opinions. They are not attacking on your personality."

およそ1年間の交換留学が卒業必須条件に組み込まれている大学だったので、留学へ行った際に必要となる、ディスカッションも授業の中にたくさん盛り込まれていた。 

サンフラ育ちの日本人の先生がディベートに入る前に何度も声を大にして言っていた。
「言われたことをあなた自身の問題としてとらえないでね」
「あくまで意見であり、あなたの人格を否定しているわけじゃないからね」
ディスカッションの場で、そんな注意を事前に受けなくてもわかるでしょ、と思う方も多いのではないだろうか。
かくいうわたしも、始まるまで、教授は何言ってんだ?と思っていた。

けれど、ディスカッションが始まるとそれはゆっくりと露呈し始める。

英会話でのレベルとはまた別に、ディスカッションでは個人の客観性がいかんなく試される。
そして日本の教育では往々にして、その客観性が育まれにくいと感じた。

個々人の意見なんて十人いれば、十通りある。
ディスカッションはディベートと異なり、互いの意見を聞き、ベストな物をそこから導き出す、または作り出すことだとわたしは理解している。
「三人寄れば文殊の知恵」とあるのだから、より良い意見を出したり、自身の考えに新たな閃きを取り入れるのには打ってつけだと思う。

が、そんなこと、一度議論が始まれば、頭の片隅にすら席を設けてもらえないのである。

教授から投げられたお題について、それぞれ4,5人のグループになり、考えを出し合った。
みんなそれぞれひとまず意見を言い合い、そのあとで、それぞれの意見に対して、指摘などを入れていった。

指摘や意見に対する意見を述べているときだった。
メンバーのうち一人が、指摘されたことに対し、過剰反応し始めた。
彼女は突然火が付いたように怒りだし、自分の意見が誰よりも正しい事を力説し始め、あまつさえは、意見を述べた学生を攻撃し始めた。

ああ、これが"Take it personally"ということか。

烈火のごとく英語をまくしたてる彼女は、誰の意見も聞かず、ディスカッションが終わっても、般若の面をつけたまま、授業にのぞんでいた。

べつに誰も、彼女の人格や考え方について否定をしたわけじゃない。

ただ、その考え方に関しては、盲点となってしまっていたところがあったから、意見を述べただけだった。

これが母国語の日本語でやるともっと難しい。

英語は幸いなことに、比較的ストレートに表現をする。
(もちろん、オブラートに包む言い方もある)

英語話者がみな、客観的にディスカッションを行えるかと言えば、それは疑わしい。

けれど彼らは比較的それに慣れている。
そして自分自身の人格と、相手からの批判については、ある程度乖離させて考える事が出来る。

その一方、それが難しい日本人は多い。
自分が言った意見に対して否定的な意見を言われると、言い方がどうにしろ、とても傷つく。
例え、相手が良かれと思って指摘してくれていたとしても。
そうなってしまった時点で、人は人の言葉が耳に入らなくなる。

ディスカッションの仕方なんて習ったことがないのだから、言い方や捉え方を知らないのは仕方ない。
けれど、わたしはもっと多くの人が、そう言ったことを知り、客観性を持って意見を出し合えたなら、自ずと半分以上のことは良い方向へ向かっていくのではないかと思う。

人の言葉を受け入れて、理解してみる。
その工程が、何事にも必要だと思うから。

おしまい


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