溺れた私と悟兄ちゃん
ぼちゃん
ごぼごぼ
三歳の私はある公園の茶色くて汚い池に頭から落ちた。
その時は薄茶色の水の中という認識と、
たくさん水を飲んだ感覚だけを覚えている。
まずいとか汚いとかそんなことは考えられず、
ただ「水」「うす茶色」というその瞬間のイメージだけが脳を支配した。
その数秒後、私は池に落ちた自分を認識する。
暴れたかは覚えていない。
すぐに誰かが私の足を掴んで引っ張り上げたからだ。
どっちの足を掴まれたかは覚えていない。
ザバァと自分が引き上げられる音がきっとしたのだろうと思う。
ずるりと池に引っ張り上げられ、そこには真っ青な顔をしたいとこの悟兄ちゃんがいた。
私は悟兄ちゃんに助けられたのだった。
「おじちゃあん!あやちゃん落ちたで!!!早く来て!!!」
張り裂けんばかりの兄ちゃんの声が公園に響き渡った。池のほとりで私はたしか汚い水でずぶ濡れでしゃがんでいる。
目線は覚えていない。
何があったのかまだよくわかっておらず呆けていたような気がする。
そしてそんな私の目の前に水筒のコップが現れる。
「うがいしな」
悟兄ちゃんのぶっきらぼうだけど真剣な声と共に半ば強引に私の口元にお茶が入ったコップが当てられる。
私はそれに対してお茶だから飲んだ方がいいのか、でもうがいしなと言われたのでうがいした方がいいのか悩んだ気がする。
その後少し間を置いて、ああ私はもしかしたらあのまま誰にも気付かれずにごぼごぼと沈んだままだったのかもしれないと思い出し、悲しいのと怖かったのが津波のように押し寄せてきた。
私はコップを持ってしゃがみこんでわんわん泣いていたと思う。
そのすぐそばで兄ちゃんは一緒にしゃがんで
「怖かったなぁ」
と言いながら背中をぽんぽんと優しく叩いてくれた。
泣きすぎて呼吸が乱れる中、その一定のぽんぽんというリズムに何とも言えない安心感と、この人がいなかったらどうなっちゃったんだろうという恐ろしさが湧き上がった。
私は父達が顔面蒼白で駆け寄ってきた後も延々と泣き続けた。
◇
「見たい映画があって、あやちゃん一緒に行ってくれへんか」
いきなりの悟兄ちゃんからのメッセージにうれしさでヒュッと息が止まった。
見たい映画とは渋谷のミニシアターで期間限定でやっているチェコアニメのことだった。
悟兄ちゃんは学芸員だった。
普段は関西のとある美術館で働いている。
私と悟兄ちゃんの関係はいとこ同士で、十個も歳が離れている。
兄ちゃんは私の父の兄の長男である。
私は両親がずっと関東に住んでいるから生まれも育ちも関東だが、小さい頃は夏休みと冬休みと両親に連れられて数日間悟兄ちゃんの住む家に遊びに行っていた。
悟兄ちゃんの家は二世帯で、おばあちゃんと伯父ちゃん家族が住んでいたのだ。
帰るたびにその家には沢山のいとこが集まり、いつもわぁわぁとしていた。
だが元来人見知りの私が、毎年決まって関西に帰ってはいたものの、たった数日間の滞在でいとこたちと気を許す仲になるのは至難の業であった。
さらに私には兄がおり、兄とは六歳離れている。
なのでいとこ陣の中ではだいぶ離れた末っ子であり、それもあってか本当は関西に帰るのが少し苦痛であった。
しかし私が六年生の時おじいちゃんが亡くなり、二十三歳の時におばあちゃんが亡くなり、いとこ達もそれぞれ就職し結婚してだんだんといとこが全員集まる機会は減っていった。
その時間の移り変わりに私は安堵と、ほんの少しの寂しさを感じていた。
そしてその頃には十個歳が離れた悟兄ちゃんはとっくに家を出てしまっていた。
その一年後、私が二十四歳で悟兄ちゃんが三十四歳の頃、兄ちゃんが結婚した。
さらにそのニ年後、私は会社の四個上の先輩と結婚した。
私の生きる環境は時間と共に容赦なく移り変わっていった。
「お久しぶりです!悟にいちゃん、チェコアニメに興味あったんだね。私も気になる題材なので是非!
でも、いきなりどうしたのかな」
私は何度もその文面を確認しては句読点や言い回しを変え、ようやっと送信ボタンを押した。
どきどきと胸が高鳴っている。
数分経ってメッセージが返ってくる。
「来週の土曜日なんやけど大丈夫かな?
本当は関東の友達と会う予定やったんやけど、急に来られへんようになって。
でもホテルも取ってたしどうしようかなぁと思って」
「うん、大丈夫!奥さんもいるのかな」
こんなタメ口でいいのかな、とか考えながら文字盤をフリックする。
そして奥さんも一緒にならば私が東京案内するのかなと思ったら、急にどきどきと別の緊張感が湧き上がってきた。
悟兄ちゃんの奥さんは悟兄ちゃんと同年代の女性だ。
それこそ以前おばあちゃんの三回忌の時に見かけた程度の関係である。
奥さんは見た目は線の細い女性で、仕草も言葉数もとても静かな雰囲気の女性であった。
「ううん、俺だけやで」
どくんとまた胸が鳴った。
この短時間でどれだけ心を揺さぶられているのだろうか。
自分がやや情けなくなった。
悟兄ちゃんと会うのは本当に久しぶりだった。
ましてや二人で会うのは初めてだった。
「そうなんだ!了解です」
私はさも平然を装ったメッセージを送った。
その後何時に渋谷駅で……などのメッセージを何往復かして、そのやり取りは終わった。
最後に悟兄ちゃんの
「いきなり誘ってごめんな、でもほんとたのしみ〜」
という文章に心がふわふわして、何度も読み返した。
と、同時に何浮かれているのだと頭の中のもう一人の自分が叱った。
◇
前回悟兄ちゃんと会ったのは、一年前の夏。
おばあちゃんの三回忌があり、久々にいとこ達が集まる機会があった。
私は旦那を連れて関西へ向かった。
その時は人見知りだった私も大人になり、ある程度の会話ができるような人格に変わりつつあった。
久々に会ったいとこ達は明るく優しかった。
そして子供の頃は年齢のギャップに悩んでいた関係も、全員が大人という枠組みに入ってしまえばもう同じようなものだった。
私はそれがとても心地よく、やっと居場所ができたような気がした。
悟兄ちゃんとはそれこそ十個も離れているので、私が思春期真っ只中の頃にはもうとっくに社会人になっており、そもそもの接点がなかった。
だが私が休みの期間に関西に帰ると、兄ちゃんはいつもからっと私に挨拶や軽く近況を話してくれたりした。
その屈託のない性格に私は密かに憧れを抱いていたが、当然その想いを開けっ広げに披露できる程の快活さを私は持ち合わせてはいなかった。
そんな私ももう二十六歳。
大人という枠組みの中に入ることに成功した私は悟兄ちゃんともほぼ対等に話をすることができるようになっていた。
あんなに人見知りで、問いかけてもらわない限り返答できなかった私も悟兄ちゃんに話しかけることができるようになったのだ。
ちなみにそばで旦那がかちこちに緊張していたのも、より私を積極的にさせた要因の一つかもしれないが。
私はぺらぺらと喋る己を俯瞰で見ながら、時の流れは不思議だなぁと思った。
その態度に悟兄ちゃんも気を許してくれたのか、時折私に話しかけてくれたり、私の話に茶々を入れたりした。
これは私にとっては革命であり、宝物だった。
この時の情景と感覚は、関東に戻ってからも何度も何度もガムを噛むように思い起こしては幸せな気持ちになっていた。
それ程私は悟兄ちゃんに憧れを抱いており、今までの位置からほんの少しだけれども対等になれたような感覚に歓喜を覚えていたのだった。
◇
昼の三時過ぎ。
空は雲ひとつない快晴で、春の実にうららかな天気であった。
私はやや厚めのカーディガンを着てきたが、昼間は少し暑いのでそれは脱ぎ、折り畳んで腕に抱えた。
待ち合わせ時間の15分前に渋谷の改札に到着したので、何度も折りたたみのミニ鏡を開いてまつ毛なぞを確認していた。
まるで恋人に会う前の女のように身体中がそわそわとし、たびたび男の通行人を悟兄ちゃんと見間違えていた。
はて、悟兄ちゃんはどんな格好をしていただろうか。
よくよく思い返すと私は悟兄ちゃんの私服をあまり知らなかった。
大体は法事や葬式の時のスーツ姿か、家にいる時の部屋着ばかりを見ていた。
高校生の時に一度車でいとこ数名でゲームセンターに遊びにいった時に私服を見たような気もするが全く思い出せなかった。
もしかしてもう来てるかもと思った矢先、スマホが震えた。
あわてて確認するとそれは旦那からのメッセージだった。
「久々の友達との映画、たのしんできてね😊」
それを見て胸がちくりと傷んだ。
私は何故かとっさに旦那には今日は久しぶりに会う友達と遊ぶから遅くなるかも、と伝えていた。
いとこ同士なのだから正直に話したところで優しい旦那がそれを咎めることはないように思えた。
じゃあ何故?
それについてはなぜか私は深く考えようとはしなかった。
私はまた手鏡を開いてせっせと顔を確認した。
待ち合わせ時間の五分前、そわそわしすぎてどうしようもないので心を落ち着かせるためにスマホでマインスイーパーをやっていると、急に肩をぽんと叩かれた。
「あやちゃん、やんな?」
私は「うわぁっ」と可愛げのない驚き方をして、スマホのホームボタンを押してすぐにマインスイーパーを中断した。
「驚きすぎやろ」
悟兄ちゃんは私に久々に会うにも関わらず、まるでご近所さんかのようにとても自然に笑った。
ああ……そう、この感じが本当に、憧れなのだ。
一方の私はかちこちに緊張して「あ、わわ」とスマホをぎゅっとバッグにしまった。
もう一回くらい鏡で顔を確認しとけばよかったと後悔して、自分の顔が心配で悟兄ちゃんを直視できなかった。「お久しぶりです」
「すごいかしこまるやん」
「やや、でも本当にすごい久しぶりというか。こんな機会もなかったし」
メッセージではかろうじて話せていたが、悟兄ちゃんの実物に対峙すると私は途端にひどく臆病になった。
嫌な気持ちにしてしまうのではないかと思い、一挙一動に緊張が走った。
「いこか」と悟兄ちゃんはスマホでマップを開いている。
私も慌ててマップを開いて「うん」と言って少し先を行く兄ちゃんについていった。
そこでようやく悟兄ちゃんの全身に目がいった。
悟兄ちゃんはダークグレーのシンプルな長めのコートを着ていた。
身長が高い悟兄ちゃんにそれはとても似合っていた。
悟兄ちゃんと二人っきり。
私は胸がきゅうっとしてそれからほかほかと体が熱った。
春の陽気というよりはまるで初夏のような暑さを感じた私は悟兄ちゃんに見えないように右手で顔をぱたぱたとさせて、小走りでついていった。
◇
「あぁそんなこともあったなぁ、うん覚えてるわ」
悟兄ちゃんはそう言うとビールのジョッキを持ち上げぐびぐびと飲み干した。
これでもうジョッキ三杯目である。
その飲みっぷりをぼーっと見ながら私はまだ一杯目のビールをちびっと口に運んだ。
映画館から出ると、私と悟兄ちゃんはホテルの最寄り駅から少し歩いた飲み屋に入った。
飲み屋は人で密集しており、席はカウンターで、私は悟兄ちゃんの隣にぎゅっとおさまった。
悟兄ちゃんは小声で
「思ったより狭い店やったな、大丈夫?」
と私に言う。
その申し訳なさそうな声に私は内心どぎまぎとしていた。
近いのはうれしかったがやはり恥ずかしかった。
だがしばらくするとお酒も入ってきて私の緊張は少しほぐれた。
悟兄ちゃんとは映画の感想や最近の近況を話したりしていた。
チェコアニメの映画はとても面白かったが、狭いシアターで今にも触れそうな悟兄ちゃんの肩にばっかり気がいって実の所あまりアニメに集中できなかった。
そしてふと私は悟兄ちゃんに昔公園の汚い池の中に落ちて、それを悟兄ちゃんが助けてくれた話をしてみた。
悟兄ちゃんは覚えていたようで、うんうんと笑いながら言った。
「ちっこいあやちゃんがな、いきなり頭からドーンて池に落ちたんよ」
「落ちた原因は私の背負ってたリュックのせいだろうってお母さんが言ってた」
それは三歳の私が背負っていたリュックには何かしら物が詰まっていたようで、私が池を覗き込んだ時にリュックが頭の方にズレてそのまま池に落ちてしまったのではないかという推測だった。
「必死に足掴んで持ち上げたんよな〜その後あやちゃんめっちゃ泣いてて」
「恥ずかしいなぁ、でも悟兄ちゃんが助けてくれなかったらどうなってたのかなぁって思うと怖いよ」
私はそう言ってからビールのジョッキを両手で掴んでぐびりと一口飲んだ。
悟兄ちゃんがビールを頼むので、私もそれに釣られてしまった。
本当のところは私はそこまでビールが好きと言うわけではないのだが。
悟兄ちゃんが静かなので、私はちらりと兄ちゃんの方を見た。
すると兄ちゃんはだいぶ酔っ払っているのかとろんとした目をしていた。
が、すぐに私の視線に気づいてこちらを見る。
すると悟兄ちゃんはおもむろに自分の肩を私の肩にこつんと当てて
「じゃあ俺はあやちゃんの命の恩人やな、お礼してもらわな」
と言って、いたずらっ子のように笑った。
お酒が入っているせいだろう、私は腰が痺れる感覚と、かぁっと顔が赤くなっていく感じがした。
◇
十時半すぎ、私たちは店を後にした。
二人ともそれなりに酒を飲んだが、悟兄ちゃんはひときわぐだぐだに酔っ払っていて、ちょっとよろよろとしていた。
一方の私は、多少ふわふわと気持ちのいい眠気がある程度ですんでいた。
悟兄ちゃんはなんとか歩いていたけど、このまま一人にするのは危険だと感じた。
そんなこと思っている矢先「ととと」と歩道の脇へとふらついて座り込んでしまった。
「悟兄ちゃん、大丈夫?」
「うん、へいきへいき」
どう見ても全然平気ではないので当たりを見て近くの自販機から水のペットボトルを買ってふにゃっとして座り込んでいる兄ちゃんに渡した。
悟兄ちゃんは酔っ払いながらもペットボトルの蓋を開け、ゆっくり水を飲んだ。
私はそれを心配しながら見つめる。
うつろな目は、何を考えているのだろうか。
水を半分程度飲んだ後、悟兄ちゃんはぐでぐでな状態から少しだけ復活して、よっこいしょとその大きい体を持ち上げた。
ごめんな〜と言いながら私の方に向いた。
「ホテル近いの?」
「うん、駅の近くやから」
その後悟兄ちゃんは再び歩き出すが、やはり足元がおぼつかない。
私は多少の遠慮もあったが「兄ちゃん危ないからちょっと腕掴むよ」と言って悟兄ちゃんの左腕に自分の右腕を絡ませた。
鼓動がすごい。
多少の遠慮ではなく下心が私にはあった。
悟兄ちゃんは腕を絡ませてきた私に一瞬ぴくっと反応したが、その後またうつろな雰囲気になり「うん、たのむわ」と言った。
酔った勢いで大胆な行動をしてしまった自分は顔が赤くなった。
悟兄ちゃんの腕はコート越しではあるが骨張ってがっしりとしており、自分の腕とは全く違う男の腕だなと感じた。
まさかこんな風に腕を掴む時が来るなんてと不思議な気持ちになった。
ちらりと悟兄ちゃんを見やる。
兄ちゃんの身長は高く、180cmくらいだった。155cmほどの私はぐぐっと顔を上げなければ兄ちゃんの顔を見ることができなかった。
ふっと悟兄ちゃんがこっちを見る。
私はとてつもなく恥ずかしくなって
「ごめん、腕、はなす?」
と言って絡ませていた右腕をゆるめた。
だが悟兄ちゃんは「ううん、掴んどいて」と酔ってはいたが優しい声色で私に言った。
大通りから少し外れた路地はポツポツと飲み屋の電気がついているだけで薄暗い。
私は夢の中にいるように錯覚した。
こんな夢はいつまでも続けばいい、と頭の中の欲にまみれた私がつぶやいた。
駅の改札に着くと、悟兄ちゃんはふらふらとしながらもカバンからごそごそと財布を出して
「ごめんな、お水代」
と言って1000円札を私に渡そうとしてきたので、私はそれを頑なに拒んだ。
「いいよお水なんて。しかも1000円とか多過ぎだし」
それでも悟兄ちゃんは
「こういう時はもらっとくもんやで」
と私の手にぐいぐいと1000円を握らせようとするので私も意地になってそれを突っ返した。
それがまるで関西のおばちゃんがレジ前で支払いを揉めているようなやり取りのように感じて私と悟兄ちゃんはだんだん笑いながらそのやりとりを繰り返した。
しばらくして、私が本当に大丈夫だから、奢りだからと主張し続けた結果、悟兄ちゃんが折れた。
「ふー、じゃあお言葉に甘えさせてもらうわ。あやちゃん今日は本当にありがとうな」
悟兄ちゃんはしわが寄った1000円札をそろそろと財布にしまいながら言った。
その言葉を聞いて、悟兄ちゃんとの今この時がもうすぐ終わりなのだと感じ、途端にひどく寂しくなった。
改札に入ってしまえばもうお別れである。
「あ、うん。そうだね、今日は映画も面白かったし悟兄ちゃんと沢山話せて本当に楽しかった」
「ん、今度はいつ関東来られるかわからんなぁ」
「こっちも関西はいつ行けるかわかんないかな」
「まぁまた機会があったらな」
と悟兄ちゃんは言うと改めてすっと姿勢を正してこっちを向いた。
あぁ、もうお別れだ。
私は改札の方に向かなければいけない。
私は未練いっぱいなのを隠してゆっくりと改札の方に体を向ける。
「じゃあね、あやちゃん」
「うん、ありがとう」
私はSuicaを出し、改札のセンサーに近づけた。
無機質な電子音がした。
改札を出て向きを変えると悟兄ちゃんがこちらに手を振りつつもゆっくりと駅の出口の方に、ビジネスホテルの方に向かって行く。
私は手を小さく振りながら心臓がどくどくと脈打つのを感じた。
悟兄ちゃんがだんだん遠くなっていく。
足元がおぼつかなくて放っておけない様子であった。
でも理由はそれだけではなかった、私の中の問題だ。
私の中の欲望のマグマのようなものがぐつぐつと煮えたぎっているのを感じた。
瞬間、私は改札の端の駅員さんの元へ駆け寄り
「すみません、間違えて入ってしまったので外に出たいです」と申告し、ホームへは行かずに駅の出口へと小走りで駆けた。
悟兄ちゃんはもう駅の外の少し暗い歩道に出ていた。
私は悟兄ちゃんの元へ走った。
自分でも自分が何をしているのかわからなかった。
この私の走る足は、本来の自分の意思というよりかは私の中の衝動が勝手に、まるで自転車を漕ぐように足を全力で動かしていた。
悟兄ちゃんは依然としてふらふらとしていた。
私は悟兄ちゃんのコートからひょろりと伸びる右手を私の両手で掴んだ。
悟兄ちゃんは「わっ」と低い声を上げ、目を見開いてこちらを見た。
そして見開いていた目をさらに大きくして
「あやちゃん……どうしたん」
と心配そうな声色で話しかけてきた。
「あのね、ふらふらだからやっぱりホテルまで着いていくよ」
「あかんよ、大丈夫やし。しかもここらへん暗いからあやちゃんだけで帰らせられへんし」
「でも」と言う私を制止して、悟兄ちゃんはくるりとまた向きを駅の方に変えた。
また駅に向かうことになってしまう。
私は焦りとそれ以上に欲望のマグマがどろどろと心の中から外へ溢れそうなのを感じた。
私は悟兄ちゃんの右手を自分の両手で掴んでいたのをやめて今度は悟兄ちゃんの右腕に自分の両腕をぐっと絡ませた。
私の上半身が悟兄ちゃんの右腕に強く抱きつくような体制になった。
悟兄ちゃんは「あ……」と小さい声を出して戸惑っているようだった。
「違うの。本当は悟兄ちゃんと、もっとしゃべりたい」
「さっきのじゃ物足りへんの?」
「うん」
私は悟兄ちゃんの目を見ずに、ただひたすら許しを請う人のように悟兄ちゃんの右腕に顔をうずめ、目をぎゅっと閉じていた。
しばらく沈黙が続いた後、私の背中にふっと悟兄ちゃんの左手のひらが置かれる感覚がした。
「じゃあホテルでゆっくり話す?」
悟兄ちゃんは私の耳元近くでぽつりとそうつぶやいた。
そのなんとも甘く危険な響きにどくんと心臓が高鳴り、身体がじんじんと痺れる感覚がした。
◇
ビジネスホテルの部屋はツインルームだった。
悟兄ちゃんいわくシングルではでかい自分には窮屈なのでツインを取っていたのだと言っていた。
エントランスで追加料金を払い、私は五階にある部屋のドアを開ける悟兄ちゃんの後をついて歩いた。
悟兄ちゃんがキーを壁のくぼみに刺すと、暗かった部屋にパッと電気がついて、室内の様子が明らかになった。
その瞬間、悟兄ちゃんはふらふらとツインベッドにうつぶせで倒れ込んだので私は急いで兄ちゃんの元に駆け寄った。
悟兄ちゃんは小さな声で
「あやちゃんごめん、お水〜」
と言うので私は悟兄ちゃんのカバンの中に入っていた先程の水のペットボトルを取り出し、悟兄ちゃんに差し出した。
悟兄ちゃんはむっくりと上半身を起こしベッドに腰掛けた姿勢でまた水をぐびぐび飲んでいた。
私はその間にテレビや、色んなインフォメーションをラミネートした紙が置いてあるテーブルの近くにある椅子に座って、そそくさとスマホにメッセージを送っていた。
「ごめん、友達もカラオケに移動してから話が盛り上がっちゃって今日は帰れそうにありません。本当に申し訳ないけど今日はオールしてきます…🙇♀️」
旦那宛のメッセージだ。
送信ボタンを押して、罪悪感と謎の達成感があった自分を気味悪く思った。
「旦那さん?」
さっきまで水を飲んでいた悟兄ちゃんが気付けばこちらをじっと見ていた。
私はびくっとしてスマホを膝に置いた。
「うん。友達とカラオケオールするって言っちゃった」
「あれ、じゃあ今日の予定、本当のこと言ってへんの」
「う、うん」
私がもごもごと所在なさそうにしていると、悟兄ちゃんはふぅんと言ってうっすらと笑っていた。
私の中身の全てを見透かされたような気がして、急に私は裸にされたような情けない気持ちになった。
私はなんでここに来てしまったんだろうと今になって躊躇する自分がいた。
ここで何を話そうと言うのだ。
自分から飛び込んで、それから私は何を成し遂げようとしているのだろうか。
そんな問いを頭の中で突きつけながら私は椅子に座って俯いていた。
「あやちゃん、こっちおいで」
そう言って悟兄ちゃんがポンポンとベッドを右手で叩く。
その時私の全身はびりびりと痺れて、まるで動物が何か罠にかかって麻痺したような感覚になった。
ゆっくり悟兄ちゃんの隣に座った。
スカートが少し乱れたのでさっと直した。
今日は映画館や居酒屋などで悟兄ちゃんと距離が近い場面がいくつもあったものの、今この時の近さはその比ではなかった。
ふたりきり。
ベッドの上。
悟兄ちゃんに見つめられている。
私の頭の中にその文章が綴られ、きゅうっと身体が締め付けられるような思いになる。
今、手を伸ばせば悟兄ちゃんに触れる。
先程までも何回か触っていたけれど、今触るのは偶発的なものではなく、確実にある特定の意味を持ったものになる。
そう思っていた矢先、悟兄ちゃんがいきなり私の腰に手を回してきた。
「わっ」と私は小さく言って、それからどうすればいいのかわからず固まってしまった。
ちらっと悟兄ちゃんの顔を見ると、それはさっきまで酔ってとろんとしていた顔でもなく、にやっと笑っていた顔でもなかった。
私の何かを貪ろうと眈々と狙うような、そんな獣のような目になっていた。
明らかに悟兄ちゃんの纏う雰囲気が変わったのがわかった。
「悟兄ちゃん、酔ってる……?」
「あぁ、酔ってるで。そんでなんか今な、俺すごく寂しい気持ちかもしれん」
「寂しい?」
私は少し悟兄ちゃんから距離をおこうとして、ずりずりと後ずさるが、そうさせまいと悟兄ちゃんは私の腰にしっかりと手を回し、そしてじりじりと距離をつめてくる。
「あやちゃん、ぎゅってしてええ?」
悟兄ちゃんのその息を吐くような声色は、とても色気があった。
そしてその返答に私が答える暇もなく、悟兄ちゃんは私の事を強く抱きしめた。
◇
今まで想像でしかなかった悟兄ちゃんの胸板の、あたたかさをリアルに感じた。
私は身体中がじわぁと溶けて自分自身がどろどろの甘い液体になってしまうのではないかとおもった。
と同時に、これ以上はいけないという警鐘が頭の中でガンガンと響いた。
悟兄ちゃんの大きい体格は、小柄な私の体をすっぽりと収めた。
悟兄ちゃんの腕は私の背中に回っており、絶対逃げられないような拘束感があった。
私自身は腕をどこにやればよいのかわからず、力を抜いて悟兄ちゃんの腰あたりにふわっと泳がせていた。
長い静止時間。
悟兄ちゃんのふぅという深い呼吸が頭の上で聞こえた。視界は悟兄ちゃんの着ているセーターの黒一色である。私はもごもごと頭を動かすが、思ったより悟兄ちゃんが私をグッと抱きしめているので胸板にグリグリと顔を擦り付けるような動作しかできなかった。
「あやちゃんはええ匂いがすんのな」
ぽつりとつぶやくように兄ちゃんが言葉をこぼす。
そのなんとも色香を感じる響きに私の腰が砕けそうになった。
そのままゆっくりと悟兄ちゃんは私を抱いたままゆっくりとうつ伏せになり、私はベッドと悟兄ちゃんの間にサンドイッチされる形になった。
「さとるにいちゃん…だめ」
私はどうにか両手を悟兄ちゃんの硬く抱きつく腕の中にねじ入れて、自分の胸の前で手の平をぐっと広げた。
そしてその両手の平で兄ちゃんの胸板をどうにかぐいぐい押して拘束から抜け出そうとしたが、悟兄ちゃんはふっと拘束を解いたかと思うと今度は私の両手首を握りあっという間にベッドに押さえつけた。
それは私の両耳のすぐそばにぐっと押さえつけている。
「もうちょっとだけかいでええ?」
悟兄ちゃんは虚ろな目をしていた。
まるでなにかの薬を嗅がされてぼーっとしているような目だ。
ほのかに酒の匂いを感じた。
その強引さにはあやしい魅力があった。
兄ちゃんの顔がぐっと近づいてくる。
私は目をつぶってぐっと首を左に回した。
その途端右の首筋に悟兄ちゃんの鼻が当たったような感覚があった。
すぅすぅと兄ちゃんが私の匂いをかぐ。
恥ずかしくて目をよりぐっと瞑る。
へんなにおいしてないかな……と心の中でどきどきとしていた最中、急に首筋にぬたっとしたものが下から上に這った。
「んぁっ」と思わずか細い声が口から漏れ、恥ずかしさと性的な快感のようなものに体全体がじんじんとするのを感じた。
これ以上は、ほんとに、だめ。
すでにどろどろと崩れている理性に何の意味になってもいないようなムチを入れる。
が、悟兄ちゃんはそれを阻むようにやさしくやさしく私の首筋や耳を舐めた。
私は今度は声を出さないように必死に口を紡ぎ、だくだくと蛇口から出てくるような勢いの快感と羞恥に必死に耐えた。
このままめちゃくちゃにされてしまったらどうなるだろう。
めちゃくちゃってなんだろう。
でも、こういうこと、されたかったのかもしれない。
今この時確実に、私は悟兄ちゃんに性的な対象にされているのである。
この感覚自体は最高だった。
そんな私は気が狂っているのかもしれない。
そしてわかる、これ以上はやはり駄目なのだと。
一時的な感情で踏み入るべきものではないのだと。
「さとる、にいちゃん」
私は目を開いて首を右に捻り兄ちゃんの顔を見た。
とんでもない至近距離に悟兄ちゃんの顔があり、私は胸がぎゅうっとなった。
悟兄ちゃんはとろんとした目で私を見つめている。
ああ、このまま受け入れてみたい。
心の中で私は思った。
けど、だめ。だめだよ。
「ありがとう、うれしい。でもだめだよ、だめなの」
私はぽつり、ぽつりと口を開いて悟兄ちゃんに言った。言葉ではだめと言っているけれど、本当は受け入れたくて仕方がなかった。
悟兄ちゃんは私の言葉を聞くと一瞬目をパッと開いて、
「ん……ごめん、ごめんな」
と言い、それから私から目を逸らして私の手首を押さえつけていた自らの両手をゆっくりと解いた。
掴まれていた手首にふっと空調から出る空気の冷たさを感じた。
悟兄ちゃんは上体を起こし、仰向けに倒れる私のそばであぐらをかいた。
そして俯いて申し訳なさそうな声で
「ごめん、どうかしてたわ、本当にごめん」
と私に言っている姿勢ではあるのだが、それはまるで自分自身に言い聞かせているような、ぶつぶつと念仏のようにつぶやいていた。
その様子を見た私はばっと上体を起こし、乱れていた着衣と髪の毛を両手でさっと直しながら悟兄ちゃんの正面へ向いた。
そして今にも切れそうな糸と糸を繋ぎ合わせるかのようにあぐらをかいて俯いている悟兄ちゃんの頭に覆い被さるように私は立膝をしてそっと抱きしめた。
「あやちゃん……?」という悟兄ちゃんの言葉を遮るように私はぎゅうと悟兄ちゃんの頭を自分の胸でぎゅうぎゅうと包んだ。
焦燥感で突き動かされていた。
悟兄ちゃんはこの出来事を記憶の隅に追いやろうとしていた。
それがわかった私は、絶対に悟兄ちゃんにはそう思ってほしくなかった。
だって私には、私にとってはかけがえのない思い出になるのだから。
その自分の傲慢さに驚き、このタイミングで急に悟兄ちゃんの奥さんの顔と、旦那の顔が思い浮かんだ。
途端にひどい罪悪感の津波が私に押し寄せてきて、私は悟兄ちゃんからふらっと離れ、今度はこっちがひどく俯き「ごめんなさい、ごめんなさい」と念仏のように呟いた。
それでもこのごめんなさいは誰に対して言っているのかわからなかった。
それ程私は罪悪感はあったもののごめんなさいとはつゆほど思っていなかったのである。
そのことにまもなく気が付き、私はなんて女なんだろうと思ったが、決してそのことに恥じるという感情はなかった。
「でも、最後にとなりで眠ってもいい?」
私は泣きそうな声で悟兄ちゃんに言った。
目を見ることはできなかった。
少し間があってから
「あやちゃんがええんやったら」
と悟兄ちゃんは言った。
◇
まだおばあちゃんが生きていた頃、私は悟兄ちゃんの部屋で寝たことがある。
それはいつも寝る時に使っていた客間の部屋が荷物が多くて使えないか何かで、たしかそんな理由だった。
悟兄ちゃんはとっくに家を出ていたが、悟兄ちゃんの使っていた部屋はそのまんまであった。
漫画とかベッドとか、全てがそのままの状態で、時が止まっているようなその部屋を見て私は、子供が家から出て行くのはこういうことなのかと思ったのを覚えている。
息子のベッドを使わせるのは申し訳ないと思ったのか伯母さんは、その部屋にこれを使ってと布団を持ち込んでくれた。
だが私はこっそり悟兄ちゃんのベッドの上で眠った。
うつぶせになってすーっとシーツの匂いをかいだ。
するのは洗濯洗剤の無機質な匂いのみで、悟兄ちゃん自身の匂いのようなものはとっくに感じられなかった。
私はうつぶせになって右手でシーツを摘んでは離したり、指先ですーっとなでたりした。
そこで悟兄ちゃんが眠っていたという事実を噛み締めるとなんとも切ない気持ちになれた。
◇
私と悟兄ちゃんはベッドに隣り合って寝転がった。
だが悟兄ちゃんは私に背を向けて
「ごめん、ごめんな」
とまた呟いていたので、私はそんな兄ちゃんの背中にぎゅっと抱きついた。
その時悟兄ちゃんの息を飲む声を聞いた。
「ごめんじゃないよ、ずるい」
私はちょっとだけおどけた感じを装って言う。
そして背中を抱きしめる力を強める。
触るなと言ったり触ってと言ったり、わたしは何をしているんだろう。
それでも、私の理性は揺らいでその結果悟兄ちゃんに触れてしまうのだった。
「あやちゃん、矛盾しとるで」
悟兄ちゃんはゆっくりとこっちに向き直る。
私はぱっと抱きしめていた腕を解いた。
悟兄ちゃんの彫りの深い顔がこちらを向いている。
さっきより意識がはっきりしているようで、なんだか少し恥ずかしくなった。
「それはごめん、矛盾してるかも。自分でもよくわかんないや。でも、さっきまであんな感じだったのに急によそよそしいの寂しいよ」
「や、それは」
悟兄ちゃんはぽりぽりと頭をかいてから、左手で私の右肩を軽くこづいた。
「これ以上抑えられんくなったら、やばいし」
その言葉に私は「きゃあ」と小さい悲鳴をあげてからくすくすと笑った。
自分でもどうかしていた。
酒のせいでは済まされない浮かれっぷりだった。
さっきまでごめんなさいと言っていたくせに。
私の中には色んな私がいた。
「あのね、悟兄ちゃん覚えてるかな。私が公園のきたなーい池に落ちた時にね」
「あぁ、さっきも話しとったやん」
「ううん、助けられた後に泣いてる私の背中をぽんぽんしてくれたの」
悟兄ちゃんはあぁ〜とまた頭をかいて「たしかにそうしたっけなぁ、俺もどうしたらいいかわからへんかったなぁ」と言った。
「あれをね、してほしいなって」
「あぁ、背中ポンポン?それならお安い御用やけど」
私はくるっと悟兄ちゃんに背中を向けて「どうぞ」と言う。
後ろからふふっと悟兄ちゃんの吹き出す笑い声が聞こえてそれから、兄ちゃんの大きな手の平がゆっくりぽんぽんと一定のリズムで私の背中を叩いた。
私は目をつぶってみるけれど、寝転がっている二人が同じ方向を向いてぽんぽんされている体勢と状況がシュールな気がして、笑えてきた。
「なんか、違う気がする」
私が深妙なトーンでつぶやくと「なんやねん」と悟兄ちゃんの軽快なツッコミが入った。
うーんと悩みながら私はもう一度くるりと寝返りをうって悟兄ちゃんの方に向き直る。
ちらっと顔を見ると悟兄ちゃんは優しい顔をしていた。
「うーん、ぽんぽんして欲しいんだけどなぁ」
横たわったまま私は腕を組んでうーんとしていると悟兄ちゃんは「これは?」と言って突然私を抱き寄せた。
それはさっきとは違う、私がいつでも逃げられるような気を遣った力加減だった。
悟兄ちゃんが私をぐっと自分の胸に寄せた後に背中をぽんぽんと叩いてくれる。
悟兄ちゃんの胸のあたたかさと、一定のリズムに私は急激に瞼が重くなり意識が遠くなっていく。
「すごくいいかんじ……ありがとう、悟兄ちゃん」
「ん……お休み」
そうしてふわふわと現実と夢の狭間に漂う私が最後に見たのは、悟兄ちゃんが私のおでこにそっと鼻をこすりつける仕草だった。
それはなんだか恥ずかしくてうれしくて、そしてとても安心した。
そうして私は完全に夢の中に落ちていった。
◇
その夜私は夢を見た。
ごぼごぼごぼと私は茶色くて汚い水に頭から落っこちる。
その時は薄茶色の水の中という認識と、たくさん水を飲んだ感覚だけを覚えている。
目を開けると私は茶色くて汚い水の中にいた。
それは子供の頃の私ではなく、今の私。
誰も助けてくれることもなく、ただ茶色い水の中を漂っていた。
あれ、悟兄ちゃんが助けてくれるはずなのにと夢の中の私は思っていた。
だが待てども待てども、そこはもう水音ひとつしない私しかいない茶色くて汚い水の中なのであった。
◇
朝。
私が目を開けると悟兄ちゃんはもう支度を終えていて、目を覚ました私を見て
「髪の毛と顔、すごいことになってんで」
と優しく笑いながら言った。
だがその言葉の色には優しさ以外にほんの少しのよそよそしさを感じた。
私は起き上がる。
服も髪もメイクも昨日のままの状態だった。
私は急に意識がはっきりして、そそくさと洗面台へと向かった。
そして鏡の前の乱れた自分にショックを受けて、急いで直せるだけ直した。
「見たの」
ある程度ましな身なりに戻した私は椅子にかけている悟兄ちゃんを見ておそるおそる言った。
「それはもうすごい顔で寝とったで」
「うああ」
私は頭を抱えた。
そんな私を悟兄ちゃんはちらっと見て、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「さ、もう出よか。行ける?」
「あ、うん」
思ったよりあっさりとした受け答えに私は戸惑いながらも慌ててバッグとカーディガンを手にして部屋を後にした。
駅へ向かう途中、悟兄ちゃんと私はどこか気まずく、隣り合っていたものの
「今日はいい天気やな」
「そうだね」
程度の会話のみであとはほぼ無言で歩いた。
駅へつくと二人とも行き先が違ったが、悟兄ちゃんは私の方のホームで電車が来るまで待っていてくれた。
電車はなかなか来ないので二人でホームの椅子に腰掛ける。
私はちらっと悟兄ちゃんを見るが、悟兄ちゃんはこちらを見返してはくれなかった。
「悟兄ちゃん」
「ん?」
呼びかけると兄ちゃんはようやくこちらを向いたがその目は私に対して申し訳ないと思っているような、ひどく遠慮がちなものだった。
私は悟兄ちゃんにはそんな顔して欲しくなかった。
そんな、罪を負ったような顔を。
「昨日はごめんな、本当にごめん」
急に悟兄ちゃんは私に頭を下げた。
大きい兄ちゃんがいきなりぶんと頭を下げて、私より低くなったことに驚いた。
悟兄ちゃんで隠れていた線路がよく見えた。
「酒にほんま酔ってしまって。実は最近仕事も奥さんともあんまりうまくいってなくて」
悟兄ちゃんは俯いたままぽつりぽつりと言い訳をする。
「そ、うなの」
私の細い声は悟兄ちゃんに聞こえただろうか。
「だからめちゃくちゃに飲んで、記憶はあったんやけど、ついあやちゃんに甘えてしもた」
「記憶は、あるんだね」
私がほっとした顔をすると悟兄ちゃんはうろたえてから、ゆっくりと「うん」とつぶやいた。
ふとホームの端っこを見ると鳩が能天気に歩いている。
私はそれを横目で見ていた。
車が走る音、ホームを話しながら歩く人々が静かな私たちを通り過ぎて行った。
やや時間があってから、悟兄ちゃんはまるで独り言のように言った。
「こんな、あやちゃんをまるで奥さんの代わりみたいにして」
その言葉を聞いて私は頭がかぁっとする感覚に襲われた。
怒りのような感覚だが、その心情はただただ悲しいという気持ちであった。
私は悟兄ちゃんの両膝に置かれていた手を自分の手でぎゅっと掴んだ。
兄ちゃんはびっくりしてこちらを見る。
「奥さんの代わり?代わりじゃ…ないでしょ」
予想外に声が震える、泣きそうになったが堪える。
あんな扱い奥さんにするわけない。
ただの性にまみれた獣のような。
あの眈々と、狙いを定める目。
そんな目を向けるのは奥さんではない。
奥さんとは確実に違う存在なのだ、私は。
そうで、ありたい。
そうでなければ我慢ならなかった。
私の態度に悟兄ちゃんはたじろいでいた。
「ごめん、うん。そうやな、ちがうわ」
「あ、ごめんね。こっちも、そうじゃなくて。ただ私は」
私は俯く。
悟兄ちゃんは私を今どんな目で見てるんだろうか。
「でも、やっぱりごめん。そんで、これは本当に自分勝手なのはわかってるんやけど」
私はその後何を言われるのか予感した。
そしてその感情は先回りした。
私はとても虚しく、悲しくなった。
「嫌な夢やと思って、忘れてほしい。俺ももう絶対にあやちゃんには会わへんから」
「や、だ」
私は悟兄ちゃんの左腕を震える両手で掴む。
「え」と戸惑う声が兄ちゃんから漏れた。
「忘れないで、ほしい。悟兄ちゃんには心に刻んで、時々、絶対思い出してほしいの」
「それは」
「お願い、私との昨日の出来事を忘れないで。私は忘れないよ。なんどもなんども思い出して、いい?」
悟兄ちゃんの腕を掴む両手をぐっと強くする。
もうきっと、一生、こんな風に触れる機会など来ないのだから。
私の悟兄ちゃんに対する一生分の想いを、執念を、握る両手の力に託した。
悟兄ちゃんは複雑な顔をして私から少し目を逸らして、しばらく目を泳がした後、ぽつりと言った。
「俺も、忘れられへんよ。あやちゃんには忘れてほしいって言ったけど、きっと思い出して」
そこでぷつっと言葉を切る。
私は少し口角を上げて悟兄ちゃんの持つ両腕をぶんぶんと上下に振りながら
「思い出して?なにするの?」
と言ったが、悟兄ちゃんはちらっとこっちを見てからまた目を逸らし、掴まれていない右手で私の頭をポンポンとややぶっきらぼうに、でも優しく叩いた。
その顔はいつもの優しい悟兄ちゃんのものだった。
ホームに電車が滑り込んできた。
それはまるで春の風に連れられたかのようだった。
あたたかな風が私と悟兄ちゃんを包んだ。