ピザの本質とはなんぞや

今月の読書会(日曜賢者会)ではプラトンを取り上げました。「目はなぜ前についているのか?前へ前へと進むためだ。」みたいな古代的な思考を「試しに使ってみよう」ということもしたのですが、ピッツアはなぜピッツアなのかという話が面白かったので記録に残します。

具が食べたい?小麦が食べたい?

お寿司というカテゴリの食べ物だと「ご飯が食べたいから、お寿司にいく!」という需要はわりと少ないのではないかと思います。

組み合わせることに意味があるとはいえ、どちらかというと「魚」などの具材の存在感が少し大きいのではないかと思います。トロを食べたい気分の時は、お刺身でも満足できる可能性はあると思いますが、ご飯だけ食べても満足しない可能性のほうが高いと思われます。

ただ、ピッツアはお寿司よりはベースになる生地の存在感の比率が高い気がします。

もちろん生地と上に乗っている者と組み合わせに意味があるのですが、「生地そのものを楽しみたい」なのか「チーズやトマトなどの生地の上にのっているものを楽しみたい」なのか、どちらの比重が高いかは食べる人の好みで変わってくる部分が大きいところのような気がします。

なぜ、私たちは色んなピッツアをピッツアとして認識できるのか?

ここにプラトン風な答えをするなら「理想世界に「ピッツアの本質」が存在していて、現実世界にそれが劣化コピーされて多様な「ピッツア」があちこちで誕生する」といった書き方になります。

ところで、この考え方は「ピッツァがピッツアたるためには「真のピッツア」という概念が必要」という「ものごとには原因があるべき」というシンプルな価値観として見ることができます。

「空はなぜ青いのか?」みたいな「なぜ」を考えるべきという価値観です。

単に人間が決めたからというだけのものも色々ありそう


ただ、この種の問題って「単に人間がそう決めたからそうなっただけ」というものもあるので、そこは注意が必要かなとも思いました。

▼分かりやすく、誰かが決めたからそうなってるの例

「水はなぜ100度で沸騰するのか?」「人間が100度という言葉を、水の沸騰する温度として定義したから」みたいな話。


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