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話すこと、放すこと、離すこと

 話したことを、他人に話したことも独り言も心中に湧いたことも、記録するためにもう一度ここで再現したくなる。だが、なかなかそういうわけにもいかない。話すというのは、やはり一回的でライブ感が強い出来事だからだ。
 それにしても、話すとは、言葉を、正に、外に向かって手放すことだ。内面化して私の中に溜まりそうな言葉を離すこと。それによって、言葉は外に配置される。外で遊ぶ。外的な事物になる。世界の中に住むものとなる。
 そして、逆のことも考えられる。私が目で見る風景、耳で聞く音などについてだ。話された言葉はそれらと同じような外のものになるのだが、その見たり聞いたりするものが、実は言葉と同じだということだ。
 先とは逆の方向になる。目で見、耳で聞いているものが内面化してしまうのだ。それらを自分の内面に持ち込む。内面化されたままの言葉と同じように。それらを束縛し、そしてその束縛によって私自らを束縛し、というか、束縛し束縛される内面の私というものを捏造してしまう。言葉と同じことなのだ。だから、私が外のものを見、外の音を聴くとき、実は言葉と同じように、都度それらを外に向かって話しているのだ。外に離したままにしているのだ。
 その意味で、ずっと話し続けている。なんとも、おしゃべりなことではある。


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