レイハラカミと京都の夜

何年か前から、夏になると自分の住んでいるマンションの屋上でビールを飲むことがある。屋上と言ってもほんとの屋上には鍵がかかって行くことができないので、非常階段の一番上のところなんだけど、8階建てなので京都の街をわりと遠くまで見渡すことができる。京都の真夏の夜でも8階まで上にあがるとそれなりに風もあり、ビールなんか飲んでいるとけっこう涼しかったりする。

昨日の夜は今年始めて屋上に上がったんだけど意外に肌寒くて辟易した。それでも久しぶりに夜の京都の町並みを見ることができた。僕は京都駅の南西あたりに住んでいるのでマンションから見る町並みが京都らしかったりすることはなく、かろうじて京都タワーが見えるくらい。でもたぶん10年前くらいからこの屋上からの景色を見続けている。

そしてここでビールを飲みながらレイハラカミを聴くのがほんとに気持ちいい。その時の気分によってキリンジやハナレグミになったりもするんだけど、基本レイハラカミ。それも「暗やみの色」というアルバムの「sequence-03」が抜群に良い。それとなぜかリンクは貼れないんだけど、レイハラカミが作曲している映画「天然コケッコー」のサウンドトラックを聴くことが多い。この頃のレイハラカミは、今までのエレクトロニカ路線よりも少しばかりアンビエント方面に傾きかけている。僕はその抽象度の高くなった曲のほうがわりと好きでよく聴いている。真夜中にビールを飲みながら聴いていると、とてもぴったりとくる。

屋上から見える町並みはありふれていて、特に京都らしかったりするわけではない。でもここから見える景色を見ていると、僕は京都のいろんな場所で自分がかつて何をしていたか、その残像みたいなものを確認することができる。友達と歩いた鴨川、自転車に乗って通り抜けるだけの京都御所、あの頃一緒にいた彼女と乗った阪急電車、真夜中の鴨川デルタ、賑やかな四条河原町、通っていた大学… いろんな場所が記憶の底から湧き上がってくる。

そしていまこの場所から見える灯り。もちろん真夜中なのでほとんどの人は寝ていて、単なる照明に過ぎないものがほとんどだろうけど、それでもその灯りのもとにいろんな人が生活していることがわかる。こんなにもたくさんの人が生活していること、そしてそのほとんどの人を僕は知らないこと、なによりも自分自身もそのたくさんの中の一人であるということ。そんな単純な事実をあらためて確認することで、僕は自分自身の存在を再確認することができる。過去の自分と今の自分をつなぐもの、そしていま京都の街で眠っている人たち。そのすべてをこの時間と景色から了解することができる(と感じる)。そしてそんな貴重な時間を僕は夏になると経験することができる。所有していると言っても良いのかもしれない。

不思議なことに、レイハラカミの楽曲はその時の感情を適切に増幅させたり濃縮させることができる。思うに、彼が京都で暮らしていたことが影響しているんじゃないのかな。この景色にこんなに馴染んでしまうのは、きっと彼も京都の夜を感じながらこれらの作曲していたんじゃなのかとさえ思う。何の確信もないのだけれど、そうとしか言えないくらいにこの時間と景色とにぴったりとくる。

まあでも実はそんなことはどうでも良かったりする。ただ僕は、蒸し暑い夏の夜に屋上に行き、ビールを飲んでレイハラカミを聴き、自分自身のありようとこの街で暮らしている人たちの気配を感じ、その時間を心の隅まで浸透させることができればいいだけだから。



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