「ロシア」「ウクライナ」に関係する内容の可能性がある記事です。
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Possibility of Literature as world's companion〉(2)【吉本隆明の思想 主に共同幻想論と国家に関する現在的な問答集】 ★問はやすだの投稿に対する質問者からです。★★回答は、やすだあさぶろう(ペンネーム よかぜ、孫八) です。

よかぜ



問1
 ここで改めて『共同幻想論』を読み込もうとするならば、現実を目の前にした格差を助長するネオリベの限界を踏まえ、様々な形態としての中間共同体の重要性や、さらには「国民が共有できるアイデンティティ」としての「国家」というものを、改めて考える機会になれたら良いと思ったりしています。

答1
 〈国家を前提とすると言っているのは、この1で述べられている内容ですよね。
ぼくは吉本隆明だけが、日本のおんぼろ左翼思想取り扱い業者と一線を画して、国家の廃絶、解体ということを、正面から長い間考え続けてきた思想家だと思います。このことに関する構想力がなければ、自由を志向する思想としての意味がない、西欧ではマルクス以来、フーコーが、日本では唯一吉本くらいが、この課題に対峙してきたのだと思います。この観点がなければ、例えば中国の香港や台湾への圧力、ウクライナを戦場にしてまで自分達のエゴを通そうとするロシアやアメリカなどの大国の国家権力が跋扈する、いまの世界状況にたいして何も言えないし、また、前記の状況に意義を唱える、自由を志向する民主的な勢力を作れようもないわけです。ここに棹させない思想なんて、世界思想足り得ないと思います。大局的にみれば、ぼくは人類はようやく長い奴隷制を脱しようとしているんだと思いますが、このことに関してはまた言及する機会があるかもしれません。〉

問2
 今回も「人類は国家とは違う共同幻想を持ちうるのだろうか」という問題意識を原典から読み取らない場合は、「私はこの点を次の通り読んでいるから、そうは読めない」というあなたの読解の中身をご提示ください。それが無ければ判断のしようがありません。

答2
 〈ぼくは、吉本は狭義の共同幻想~つまり国家を最高の段階とする~は、解体し消え去るのが望ましいと考えていると思っています。多分残るのは対幻想(広義の共同幻想)だけというのが、彼の考えだろうと思いますね。また、だからまだ消滅しない現在でも共同幻想は小さく、小さくが理想だと思いますね。行政組織が国家より県や市や村の方が望ましい、ということと対応しているということ、でしょうね。〉

問3
 「国民が共有できるアイデンティティ」としての「国家」を考える機会としたのは私の意見でもあります。そこには、ナショナリストが考える国家観ではなく、ルソーやヘーゲルが打ちたてた市民社会という理念を肯定しているのが私の立場です。しかし、それに代わる具体案をお持ちの様に見受けられるので、簡単でもよいのでご提示ください。

答3
〈市民社会は国家より大きな概念枠ですね。また自然発生的に生まれた国家と異なり、より人工的な意志的な枠組みと言った方が良いかもしれない。市民社会は、市民革命を経て初めて成立するものだから、日本などのアジアには馴染まないもの、今でもぼくはそう思っていますね。市民革命を経ていないから。(笑)アジア的な遺制が残った社会の特徴ですね。現在のロシアや中国やフィリピンも根底はそうだと思っています。表層的、部分的にはどんどん近代的というか現代的な高層ビル群やタワーマンションが建っていき、変貌していきますが、根底はなかなか変わらないところもある。少しずつ変わってはいくでしょうけど。現在のウクライナ侵攻に対してロシア国内でもデモが起きています。こういう言い方は誤解を招きますが、吉本さんがよく言う、帰りがけの視線やフーコーの生病死の三角形を俯瞰できる視座から視るとすれば、小さな、残酷な国家との小競り合いの闘争経験が、社会を変えていくのだと思います。日本は、浅間山荘事件で大団円を迎えた連合赤軍事件さえいまだに社会体験として相対化できていないのだから。(それはオームの起こした事件に対する、一連のマスコミや有識者の考えを聞いてよくわかりました。)
 前記のようにぼくは行政単位は小さい方が力を持った方がよい、庶民一人一人に主権が有るなら、と思っているくらいで、あまり期待はまだ持てないですね。〉

問4
 最も違和を感じて理解できない点は、「正しさ」の根拠を問う際に「真理は真理です」と言い切れる考え方のことです。「真理」という言葉をいとも簡単に持ちうる言語感覚の違いに世代間格差を感じますが、そこで言われている、揺るがない「真理」とは何を指しているのですか?まさか、その「真理」とはロマンチックに夢想するイデアではないとは思いますが、『現象学の理念』や『存在と時間』を読んだ方の言葉の使い方とは思えません。私が引用した先崎氏はそこに「独善がある可能性があること」としていますが、〈関係の絶対性〉を「真理を保証するもの」などという解釈自体を出した覚えはありません。

答4
〈正しさ を 真理 と言い換えて誤解をまねきました。それでも 関係の絶対性 が 正しさ を保証するものではないことは、変わらないですね。マチウ書試論 では、そうは読めないと思います。ある思想を倫理的に肯定できるとしたら関係の絶対性という不可避性、そこにしか肯定の根拠はない、とは読めます。正しいかどうかは、保証できるものではありませんね。〉

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よかぜ
山口県下関市出身。最終学歴中央大学法学部法律学科、65歳 、考古学調査員、横浜市在住。 やりたいこと~ぼくを含む世界の成り立ちと行方を知ること。人間という生物を知ること。 詩や短歌、小説、批評文、様々な文章媒体を駆使して「今」に肉薄してみたい。ここで本気でやれるといいな。