1億総鬱時代となろう系

恥ずかしながらなろう小説読んだことがないのでブラウザの広告で見る作品や繊細で危険な読者達というなんかちょくちょく聞く話からの与太話。与太話と言っても自分自身が無意識のうちにその状態にあったという体験談から多分こうなのではないかという推測です。

前提として現在1億総鬱時代と言われてもうかなり経ちました。メンヘラはの隣人も、特に珍しくもなんとも無い当たり前の隣人としてSNSやチャットアプリで交流する時代ですね。僕含めて実際に鬱が爆発した人もいますし、爆発してないだけで限界の爆弾を抱えているフレンズ達はその何倍もの数がいるでしょう。

そしてなろう作品もよく書籍及び映像化されるようになりました。広告の量に気が狂いそうになります。どいつもこいつも特殊優秀イキリ無自覚あああああああああああああああ。そして気に入らない展開にファンメを送る読者というのもまぁ正直なろうより大昔から存在すると思うのですがネットで顕在化しましたね。

さて、僕は割と重い鬱に罹った経験があります。現在というか一年半ほど?前から割とマシにはなりましたが未だに後を引きずる変化色々には悩まされています。鬱だった時期、好む作品やゲーム体験等に明確な変化がありました。それは虚無を好むようになったということです。ゲームは格闘ゲームではなくFGOの虚無周回を好むようになり、後はパチンコ等何も考えずに周っている図柄を眺めるギャンブルをよく行うようになりました。これはやや別の話になりますが、ある人は鬱によってなろうしか活字が読めなかった時期があったと聞きます。虚無は鬱の人間に優しい。けものフレンズも初見一話は割と虚無っぽかったので僕は皆が評価していなかった最初からお気に入りとなりました。背景綺麗だし。

そして話をなろうに戻しますが、アニメ化される太郎等と言われるなろう系作品は非常に優しい世界であるという点が何よりの長所だと思っています。何もしなくてもものすごい能力や特徴があり、キャラクターは主人公を好み、何をしても肯定される。そして内容もこの場合いい意味でスカスカであることが多いと聞きます。

ハイ、非常に心に優しいんですね。僕は常々なろうが流行るのは1億総鬱時代の必然と言っています。様々な多様性や刺激、苦味等を求められるほどなれないほど日本人は貧しく、心が疲弊してしまいました。だから皆自分の理想の世界を求め作中の世界に旅立っていくのです。FGOは僕はUIやシステムやバランスをボロクソに叩きますが、その虚無は僕にとって間違いなく癒やしであり、とても感謝しています。

ただ一点の難点を除いて。それは結局いわゆる太郎とかのいわれるものの価値観では「優れていなければ他人に認められない」というルサンチマンを感じるところです。そうなるのは非常に自分としても納得のいくものだと思っています。障害者である自分は鬱だった頃、普通というものや皆に価値を感じ、どうして自分には価値がないのだろうと思い、比較し、憧れ、苦悩し続けました。なので周りの人間には自分と同じ思いを味わってほしくないので貴方は存在するだけで価値があり、僕はそれを勝手に楽しむ。そして自分も出来る範囲でその魅力を引き出そうとする。ということを行っていました。

この自分の問題は一元的な価値というものに縛られていたということになります。おそらくいわゆるなろう系や太郎を好む人たちもそうでしょう。事実社会もそのような煽りを散々やってきていますし、疲弊するのも当然でしょう。そして疲弊すればするほど、一元的な比較をはじめてしまい、尚更疲弊してしまう。

僕はそのような太郎と言われる人たちを叩く立場にありますが、それはあくまで「価値がなければ生きていてはいけない」というルサンチマンを感じるからこそです。価値がないと言われた者たちを救う言葉が貴方は優れているという願望を満たす事ではいけないと考えているからです。それは結局再び別の落伍者を生むと考えています。そして能力等を持つ者、持たない者、現実においてはそれが生まれる事に意味はないと思っています。乱数が回り、結果がそうなった。ただそれだけの話です。なので全ての存在は等しく価値がない。そして何の能力がどう作用するかわからない。なので多様性を求めるのです。僕はかつてブラッドボーンの世界の上位者の分析の中で、彼らはイレギュラーや偶然による超越を行えない限界種族だと分析しました。 https://note.com/stephanny/n/n50ecd7ebaa15 これは現代を生きる人間にも当てはまり、多様性が保証されるからこそ愚かであったりする中からの知性や結果等を得る事が出来る。生きて存在していること自体が世界の実験データの一つとして活きる。その多様性がなければ得る事はできないという考えからです。合理的に生きたいからですからね。

なので僕はこれからは優しい世界であり、なおかつ価値ではなく多様な中の一つである自分及び他人の存在を肯定するものが必要だと考えています。価値を求め続ける限り永遠に存在の肯定は来ない。

皆なろう系や太郎を叩くのですが、正直それはやっている人が元気なオタクだから出来ると思っています。求めているのは疲弊した人間であるという視点に欠けている、いわば病人叩きにしか見えないのですね。元気であるというのは当たり前で当然のものではない。幸いなことに偶然元気なオタクをやれているだけに過ぎない。なのでそれは如何なものなのかな?と思っています。

総括すると、皆楽になれるといいなぁという動機に基づく今苦しそうな人々の現実の一つの分析でした。皆の存在が肯定され、意味もなく生きる事の世界を僕は望みます。

メンタルヘルスの観点から見たなろうの分析があまりにもなかったので自分で書きました。これを読んでくれた方が更に調査発展させ、世に広めてくれる事を僕は祈っています。

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