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「素晴らしい この世界」 つくる気ある?

幼いうちは、世界が大人の所有物であるかのように、自分にとって慣れ慣れしくない。バリアフリーの「バリア」があるように、使いにくい。

二十歳に近づくにつれ、世界はしだいに使いやすくなる。三十代のいまは、非常に使い勝手がいいように感じる。公共施設はもちろんのこと。情報世界に置かれている物や、本や雑誌の文章までも、自分に向けて書いてくれたのかと感心するくらい、読みやすい。

歳を重ねるにつれ、世界は離れていく。祖父母の世代なら、テレビのリモコンくらいは使いこなせたが、FAXやPCとなると限界だった。親の世代は、ガラケーどまり。「アカウント」や「ログイン」も困難ぎみ。頑張ればスマホもいけるかもしれないが、本人の意識の高さが深くかかわってくる。

大人になれば、世界を使いこなせるものと信じていた。実際、問題解決力は、未成年の頃よりも各段に上達した。

それを、経験や知識の分量のせいだと仮定する。すると、歳を重ねてから世界が離れていく理由が、暗礁に乗りあげる。

世界は、それほど他人のものではないらしい。むしろ、自分が世界をつくっている。

世界のことを、「だれか知らない人々が、自分の目の届かぬところで、こつこつ作りあげたもの」との認識は、だれにでもあると思う。しかし、実際はちがうのだ。今日つかった言葉、今日行った行動が、世界をつくる。

その証拠に、世代の中央にいけばいくほど、世界は使いやすくなる。仕事をしたり、世界にはたらきかけたりして、活動する分量がいちばん多い世代が、集中しているからだ。

いま触っているスマホをデザインしたのは、幼児でも、お年寄りでもない。いま通った改札口も、いま乗ったバスも、いま試着した服も。

活動している人間がより多いグループほど、世界をつくりあげる。自分がそのグループに属していれば、生きやすくて当然だ。

「生きにくいな」と感じたら、それは、そのグループ内において、自分の世代がメインメンバーでない、という証拠。

それは、人数ではない。あくまで「活動している人数」なのだ。ただただ上の世代に上へならえで服従しているなら、それは活動していないことになり、いつまでたってもメインメンバーになれない。生きやすくならない。

世界をつくらない限り、生きやすさは、不変だ。変えたいなら、現在のメイン世代の正誤を、先入観のない眼で、評価し、取捨選択しなくてはならない。


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