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宇宙はシミュレーションゲームではなく、1台の雀卓である

よくこの宇宙が1つのシミュレーション・ゲームである(*1)と言われるが、私はこれに対して、宇宙は1つの雀卓である、と提唱したい。

前提として、宇宙の本質は「フラクタルなノイズの集合体」である、と仮定する。そこに生まれ落ちた高等多細胞生物としての人間は、その「フラクタルなノイズの集合体」に秩序を見出し、同時にそのランダムネスが自らに加えうる危害を最小限に抑えなければいけない。

そのために人間は「フラクタルなノイズ」の1つ1つを「麻雀牌」として把握する。つまり、秩序を与えられるべき対象である。その秩序は、麻雀においてそうであるように、「同一律」(三連続で同じものが並ぶ)、「因果律」(連番で並ぶ)に代表される。ただし、麻雀における牌の数が合計136枚しかないのに対して、宇宙を構成するノイズの数は無限である。人間の脳は常に新たな現実に遭遇し、その代わりに何かを忘却しながら「世界についての自分なりの物語」を構成する。それはあたかも、麻雀においてバラバラな麻雀牌を自分なりに並べ替え、自分の都合の良い牌を残し、都合の悪い牌を捨てることでより良い配列を作ろうとする努力に類似している。

自然は常に天文学的な数の変数を含む「不完全情報ゲーム」として生物の前に現れる。人間は自らの体内の状態すらも直接把握することができず、何1つはっきりと捉えることのできない暗闇の中に生まれ落ち、そこから全てを「ベイズ推定」する癖を身につける。というより、そうするように生物学的に習慣づけられた脳の機能を発達させる過程で「人間」になる。そしてこの「ベイズ推定」の習慣こそが私たちが見ている「世界」という夢のあらゆる法則を決定づける普遍的な法則である。こうして生物学的な意味での「世界」が出現する。

これらの秩序を通して世界を理解しようとする我々の絶望的努力は「言語」という形に結晶化する。言語は同一のものを同一の名前で呼び、因果律を前提とし、麻雀で言うところの「役」にあたる、ローカルルールに支配される「意味」をなす配列を特定の集団内で共有する。これらはウィトゲンシュタインがいったように「言語ゲーム」として動的に変動する体系であり、我々の論理的世界認識自体がこれらによって暗黙のうちに規定されている。

生物学的な「世界」のレイヤーの上に乗っかっている「社会」というレイヤーもまた、「他者」という巨大なランダムネスの源泉としての脅威を少しでも縮減するための生物学的脳、及び社会学的脳の「ベイズ推定」メカニズムの法則に支配されている。その推定の過程で、構造主義が発見したあらゆる「数学的構造」、神話的フレームワークが出現する。我々は「親」や「子」、「上司」「部下」というさまざまな役割を演じ、その役割を演じることで「信頼関係」を築き、関係を単純化・ルーティン化しようとする。もし世界中の家族の「親」と「子」の役割が1分ごとに交代することを強いられる無限役者稽古を強いられる世界線に住んでいるとしたら、どれほど私たちのリソースがその無益な役割交代に割かれることだろうか。

宇宙は常に凶暴であり、そして時間的オーダーなど存在しない。常に我々が必死で作った牌の配列は破壊されては再生されている。私たちの脳は自分達の配列を常に完成させなくては生きていけないという強迫観念に取り憑かれて毎秒毎秒牌を捨てては拾っている。

自然のランダムネスは常にフラクタル(自己相似)な姿をとって現れる。だから人間はフラクタルに「美」を見出す。フラクタルとは、凶暴な自然のランダムネスを自らの適応能力によって手懐けたことの証であり、かつては敵とみえしものを今や味方につけたという誇らしい勲章である。

*1 シミュレーションゲームであることに対して疑問を抱く理由は無数にあるが、その最大の理由はそれが「時間の進行」を前提としていることである。私は人間が感じている「時間」は人間しか認識していないものだと想定している。

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