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【古典的名作とは、読んで面白い小説ではなく、読み終わった後に面白い小説である】

こんばんは。
しびれる古本屋でございます。

僕は現代小説というよばれるものが、あまり好きではありません。

たとえば、芥川賞をとった「火花」。

「火花」は確かにおもしろい小説です。

しかし、又吉さんのファンのかたには申し訳ないのですが、僕は「火花」を読みおわったあとに、なにもこころに残りませんでした。「火花」を読んで、なにか論じたいとはおもいませんでした。色々なところで賞賛されていましたが、遠くの国の知らない人のはなしのようでした。

ただ、「火花」は読んでるときはおもしろい。リズムがよく、イメージしやすい描写で、どんどん読める。途中で本を閉じることがもったいないと感じましたし、続きが気になりました。

しかし、これとは逆に、僕が好きな古典的名作とよばれる小説は、読んでいるときは苦痛になることが多々あります。しかし読みながらも、いろいろなことを分析したくなる。論じたくなる。しゃべりたくなる。もちろん僕には小説を語る友達はいませんが。

僕は今でも「銀の匙」や「心」、そして「罪と罰」のことを考えますし、本について語るとき、人に紹介するときは、かならずそれらの古典を話題にだします。ふだん人前ではなしをしない無学な僕でさえ、話したくなってしまう。それが古典的名作です。

ただ、前回のnoteから続きますが、恋で苦しんでいるときに現代小説を読んだところ、現代小説のよさを実感することができました。

僕の場合、西加奈子さんの作品が琴線に触れ、夢中になって読みました。とくに「白いしるし」はおもしろかった。ラストがちょっと…あれですが、それでもじゅうぶんに僕にとって最高の作品でした。

そこで、なぜ自分が「白いしるし」に夢中になったかとかんがえると、そこには一つの感情が関係しているのがわかります。

それは、「共感」です。

僕は主人公に共感したのです。恋をして苦しむ女性に自分を重ねました。それが気持ちよかったし、苦しい心が少しだけほぐされました。

ここまで考えると、僕の中で現代小説とよばれるものと、古典的名作とよばれる小説と、ちがいが明確になりました。

【古典的名作とは、読んで面白い小説ではなく、読み終わった後に面白い小説である】

しかし、ここで1つのジレンマが出てきます。

現代小説は、おもしろくなければ読まれません。ましてや出版社は本を売って生活をしているわけですから、おもしろいと感じずらい本を出版、販売するわけにはいきません。

そう考えると、古典的名作になりそうな現代小説が出てきても、口あたりが悪ければ、日のあたらないところに隠れてしまうかもしれません。もしそうであれば、現代に文豪とよばれるほどの小説家が登場しないということは、あるいみ当然ではないでしょうか。

そういえば、昔、僕の古本屋でアルバイトをしていた一流大学の学生さんが作家を志しており、「売れなくてもいいから良い小説を書きたい」といっていたのを思いだしました。今になって考えれば、彼のきもちが少しわかったような気がします。

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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