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映画『ドライブ・マイ・カー』のその先に〜「多様」と「ほんとう」の限界〜

(※ネタバレ含む※)

ドライブ・マイ・カーは、今の私に、強烈な傑作感を感じさせるものだった。私は、今の自分が良いと思う(共感する)作品を、しんどくて見ることができない。だのに、ここにおける共感は、目を背けなきゃいけないほどの「キモさ」を孕んではいなかった。

 これまで見てきた作品の中でもやはりとても素晴らしいと感じる映画だった。この映画が日本映画に新たな境地を作った、今、この瞬間から、いつか、心のどこかで巡り合いを期待している作品が生まれる可能性が芽生えたのではないかと、喜んでいる。

 僕は批評家になるつもりはないから、この映画について批評するつもりはなく、もっと通底するものに手を伸ばすつもりでこの文章を書き始めた。だから、ここでは、この「多様」を受け入れる物語が、小さな物語としてこの世界に遍在していることと、その恐ろしさと、その先についてを、僕なりに考え、書いてみたいと思う。

人格乖離についての話

 ドライブ・マイ・カーでは、「多様」といふ概念及び状態が1つのキーとして働いている。

 劇中劇が多様な言語と、多様な身体性で構成されているのはもとより、映画の俳優一人一人の演技に関しても、役解釈のアプローチに多様さを強く感じた。演劇祭の主催者役を演じられた安部聡子さんの演技には、驚かされた人も多いのではないだろうか。演技の「ナチュラルさ」自体にも、多様さを育ませていることが、濱田監督のこだわりにも感じられた。

 これに関しては宇野常寛さんの雑誌『モノノメ』での、濱口監督との対談でも語られていた。

宇野 : この演技を見たとき、これはちょっと水準が違う映画だなと感じました。要するに、僕たちはそれまでの芝居や映画であまり見ないからこそ、「ナチュラルな」演技をリアリティのあるものだと感じてしまうけれど、実際の日常生活はああいった「演じない」コミュニケーションで成り立ってはいない。人はもっと芝居じみた生き物だし、抽象的な次元のことを語るときは書き言葉のように思考し、語るわけです。この違うノリの芝居の共存も、ある意味では多言語として機能している。多言語的なものは単に劇中劇の演出として用いられているのではなくて、この映画のリアリティそのものを決定しているんですよね。

濱口 : いわゆるナチュラル系演技に対しては、僕は単純に何か気恥しいんですよね。それは端的に言うと、宇野さんと同じく、「実はみんなそんなふうにしゃべんないよね」ということで。先程の話で言うと、演技の不可能性みたいなものを無視している。(中略)明らかに「これって演技ですよね」とわかる演技の中にこそ、最初に言ったようなその俳優の身体性が表れるし、それまでの人生のようなものをかえって感知しやすい。その方が全体的に面白いと思ってやってきました。それに実のところ、日常的なナチュラル系演技の身体というのは、劇的な飛躍ができないんですよね。というか、その瞬間にそれまで隠蔽していた「演技性」が露呈する。それをしたくなければ、非ドラマ的なドラマを語っていくしかない。

雑誌『モノノメ』より


「多様」と「ほんとう」の限界


 ストーリー自体も、「多様に見える」愛の手触りを共存させ、受け入れる方向へと進行する。

最後、みさきの故郷の実家の上の雪中シーン。

みさき : 音さんの、その「全て」を、「ほんとう」として捉えることは難しいですか? 音さんになんの謎もないんじゃないですか。 ただ単に「そういう人だった」と思うことは難しいですか。 家福さんを心から愛したことも、他の男性を限りなく求めたことも、なんの嘘も矛盾もないように、私には思えるんです。 おかしいですか。ごめんなさい。

家福 : 僕は、正しく傷つくべきだった。「ほんとう」をやり過ごしてしまった。僕は深く傷ついていた。気も狂わんばかりに。でも、だから、それを見ないフリをし続けた。自分自身に耳を傾けなかった。だから僕は音を失ってしまった。永遠に。

 このように、様々な「多様」なものを、レイヤーを複数作っていくことで、受け入れ可能なものに変換していくのが、この映画及び物語の核でもあった。ここに関して、僕は、「綺麗」だと感じてしまうのと同時に、時代性とそのディストピア感にも敏感になってしまう。

 このテーマを扱ってくれたことは嬉しかった。僕たちが生きる日常の中に、この構造はたくさんあって、寧ろどんどん増えていっていると感じることもある。

 現実的な話をすると、人格乖離の苦しみを持つ人が構造的には加害者化していく中で、その全てを「ほんとう」として受け入れ、また、愛してゆこうとする(被害者側の)姿勢は、ある種の「希望」となる。現実的な話、被害者側は、そうするしか、「生きてゆく術」がない。

 だが、その一方で、「ほんとう」としての受け入れは、「慰め」でしかなく、また、新たな人格乖離を生み出すだけだとも思う。

 まず、社会の話をしてゆく。こういった苦しみの連鎖が留まるところなく広がり続けているこの時代に、分かりやすく「クズ」とされる行為をする人格乖離した人間を、「加害者」として括るしか脳のない「社会」のどうでもよさに、まず多くの人が気付くべきだと思う。一般化した普遍を探すと、より「浅い」層での括りが進むことは往々にしてよくある。

 メディアはそれを助長する。そのメディアの限界性を突破するものはなかなか現れないけれど、今回の映画はその外に出ていた感を多少感じた。音の不倫相手でもある高槻をはじめ、様々な立場の人間の人格乖離性や真実性を語ることで、音やみさきの母親の社会一般的加害者感を紛らわせ、観客の意識をいのちとの対話に向けることに成功していた。

 この映画でも描かれるように、これは、生存本能と生存本能のぶつかり合いでしかない。そして、被害者側が相手の生存本能的「ほんとう」に気が付き、受け入れることが出来れば、お互いの「調和」が図れるという、「綺麗」な組み立ては、極めて順接的でもあった。

 だけれども、これは、僕からしたら「うん、まぁそうだよな」くらいにしか思えない。

 つまるところこれは、レイヤーを分けて、新たな自分を発見しているに過ぎない。そして、複数の自分を理性で一つにまとめることで、成長した気になるのだ。そのように「生きるしかない」というメッセージが、この映画の物語の最後を飾っていたが、ここもまた「あぁ、綺麗だな」くらいにしか感じなかった。

 全てを「ほんとう」だとして認めてゆくために、「理性」を利用するのって、ありきたりで限界を感じる、というのが僕の意見だ。

 みさきが家福に伝えたように、全ての真実性に誠実な人が、それらを全て「ほんとう」として受け入れると、「生きる」ことが可能になるので、また生きるのが苦しくなっている人がいたら、先程抜粋したようなセリフをその誰かにも投げて「救う」ようになる。

 でもそれは、また新たな人格乖離を生み出す。こうして人格乖離の連鎖は続いていくことになるのではないだろうか。

 誰かの乖離した人格を「ほんとう」として受け入れてゆくことは、ある種の前提にすぎないのではないか。それを認めた上で、どうしていくかを考えていかなきゃいけないんじゃないだろうか。

 まず、何度も言うように、人格乖離は「苦しみをレイヤーを分けて受け入れる」ことで生まれる。苦しいと感じる自分に加えて、受け入れたいと願う自分が現れた時、人格は乖離を始める。そしてまた、誰かに苦しみを与え、その誰かは人格を乖離させることで受け入れていく。

 この連鎖は平生私たちの周りで起こり続けている。

 だからこそ、苦しんでいる人に、「ほんとう」だと受け入れさせることの責任は大きい。その先に貴方は何を示せますか、という話でもある。

 「ほんとう」は「ほんとう」に過ぎない。僕たちは、相手の「ほんとう」を受け入れながら、その上で、乖離した自分の人格を一つに、そしてできることなら相手の人格も一つにしてゆきたいと願っている。

 この映画もまた、その手法を示すほどの希望を作ることが出来なかった。「想像の精緻さ」が村上春樹の一つの武器だとするのなら、やはり体験としての「手触り」が無いいのちの限界性を感じざるを得ない。

 「みんな違ってみんなどうでもいい」という標語は、こうした中で生まれてくるのだろうが、これも些か本質的ではないようにも感じる。

 「父性」の欠落がもたらしたもの

 行き詰まった問題にも感じるが、私はここでまず、「父性」という観点から問い直してほしいと思っている。

 乖離した人格を指先で弄りながら生きる人間に「父性」は感じない。

 乖離させる前に、ぶつかることができるものと、それを避ける者がいる。「まぁ、他人は他人だし」という文句は分かりやすい。

 「ぶん殴る」が消えた世界。自分が傷付いてでも、手を握り続けてやるという「父性」が無い人間は、簡単に人を捨てるから、皆怯えている。

「みんな違ってみんなどうでもいい」という標語はこの流れを加速させ、もうみんな全くどうでもよくなれば、みんな平和だろうという極論である。

 この人はどれほどぶつかっても、絶対に、向き合い続けてくれるという安心感及び「父性」が消えた世界で、人格乖離の連鎖が進行するのは当たり前である。

 家福と音の関係性に欠けていたのは、「ほんとう」を分かってあげる「優しさ」ではなく、お互いに手を握り続けるという「当たり前」に近い「父性」だったのではないだろうか。

 どちらか片方に「父性」が消えているだけでも、両者の関係性は、人格乖離を生む関係性になっていく。

 家福が「音に捨てられるのが怖かった」と自白するように、この世界で生きていると、「捨てる」というクズ精神が常態化しているので、皆相手が誰であろうと、もうそれを「超越」させることができなくなっている。もはや「家族」でさえもだ。

 これまでは、各個人と社会に「父性」が存在していたから、人と人はぶつかり合いながらも分かり合えて、そこには「安心」が存在していた。だから人格乖離はたいした問題にはならなかったのではないか。

 「好きな人」と簡単に繋がれてしまうこの時代に、人はわざわざぶつかり合ってでも問題を解決する力を無くしている。簡単に取っかえ引っ変え人を取り替えてゆくから、「安心」は世界から消えていってしまった。

 だとすると、この連鎖を止めるにはどうしたらいいのかを、問うてみよう。


「超越」はどう生み出せるか

 「超越」はそんな小手先では生まれない。

 ある苦しみがあったとして、それを受け入れる心と、それでも苦しい心があるとする。この2つは乖離している。しかし、ここに「2」という心の数を「超越」させるものがあるとするならそれはどんなもので、どんなイメージだろうか。

 その場面において、どちらも「ほんとう」と認めることは前提で、その上で「2つ」を「1つ」にせず、「∞」にしていく「超越」はもたらせないだろうか。

 人の心に「1つ」というデジタル数を当たはめるほど不可思議なことはない。どこまでもバカになっている。

 目の前にいる人が、「1人」だと思うこと自体が、時代に即していない。

 まずは「∞」としての可能性を抱きしめてやる必要があるんじゃないだろうか。

 その上で、僕が示せる可能性は1つしかない。

 認識する世界の真ん中を貫き、包み込んでいる通底する「いのち(非生命)」を直覚することだ。

 そして、そこから見える「圧倒的安心」が散りばめられた全なる世界を追究し、その可能性を伝え続けていくことだ。

 今回の映画はそこまでは全く辿り着かなかったけれど、日本映画史に大きな転換を与えたような気もしている。だからこそ、これからそのような作品が生まれることを、深く期待している。

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