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第六話『生に帰した誠実は何処に』

あなたは「なに」ですか?

 これまで、「脱近代」「自然観の再発見」「脱主観」など、いろいろなことについて書いてきましたが、この連載も今回が最終回となります。「損得を超えた誠実を求めて」というテーマの下で進行してきたこの連載ですが、最終回は「誠実」について、これまで考えてきたことを心に置きながら、深く探っていきたいと思います。

 第二回の『近代の足跡を辿る』で、「人間」という概念も近代以後に欧州で確立された概念であることを述べました。

 では、ここで質問です。

 あなたは「なに」ですか?

 人間ですか?○○さんですか?動物ですか?霊長類ですか?水ですか?原子ですか?分子ですか?有機物ですか?

 私たちは、これを自分自身で決めることも、決めないこともできます。私は人間です!と言うこともできるし、私は○○と申します!と言うこともできるし、風のようにゆらゆらと何も決めずに漂うこともできるのです。

 これは、実は、とても大切な話なのです。

「人間分子の関係、網目の法則」

 吉野源三郎さんの小説『君たちはどう生きるか』で、主人公のコペル君が、デパートの屋上から下の世界を眺めて、「人間分子の関係」を発見したシーンがあります。その時の彼のセリフを一部抜粋します。

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ここから見ていると、雨粒くらい人が小さく見えるね…。
分子みたいに、ちっぽけだ…。
ほんとうに人間って、分子なのかも…
だってさ、目を凝らしても見えないような、遠くにいる人たちだって、世の中という大きな流れをつくっている一部なんだ。
もちろん近くにいる人たちも。
おじさんも。
僕も。

 この後、コペル君はさらにこんな発見をします。

「人間分子の関係、網目の法則」

 棚から粉ミルクのカンを取ろうとしたコペル君は、それを落っことしてしまいます。その瞬間、彼は、粉ミルクが自分の手元にくるまでのことに思いを馳せました。

 牛、牛の世話をする人、乳をしぼる人、それを工場に運ぶ人、工場で粉ミルクにする人、かんにつめる人、かんを荷造りする人、それをトラックかなんかで鉄道にはこぶ人、汽車に積みこむ人、汽車を動かす人、汽車から港へ運ぶ人、汽船に積みこむ人、汽船を動かす人、汽船から荷をおろす人、それを倉庫にはこぶ人、倉庫の番人、売りさばきの商人、広告をする人、小売りの薬屋、薬屋までカンをはこぶ人、薬屋の主人、小僧、この小僧がうちの台所までもってきます。
 僕は、粉ミルクが、オーストラリアから、赤ん坊の僕のところまで、とてもとても長いリレーをやってきたのだと思いました。工場や汽車や汽船を作った人までいれると、何千人だか、何万人だか知れない、たくさんの人が、僕につながっているんだと思いました。
 でも、そのうち僕の知ってるのは、前のうちのそばにあった薬屋の主人だけで、あとはみんな僕の知らない人です。むこうだって、僕のことなんか、知らないにきまってます。僕は、実にへんだと思いました。

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 「人間分子の関係」は、僕が第三回と第五回で述べた「自然観の再発見」と「脱主観」と深い繋がりがあります。人間は分子のようにちっぽけであり、無数の分子たちが影響を与え合いながら、均衡を保っています。あらゆるものに役割があり、あらゆるものが存在することで、この世界は均衡を保てている、というのは、日本古来の自然観と瓜二つです。

 また、この「人間分子の関係、網目の法則」のように思考することは、「脱主観」の第一歩でもあります。この想像力が、脱主観的な思考法を育む土壌となるのです。この法則を理解すれば、様々な分子から物事を見れるようになるかもしれないし、この分子が均衡を保っている全体から物事を見ることができるようになるかもしれません。

 私たちの多くは、地球の裏側から運ばれてきたものを数百円で買って、食べたり飲んだりして、自分の身体の一部にしています。その間には、本当にたくさんの人が関わっています。近代以前と比べて、この網目の法則は拡大を続けてきました。自分の「生きる」を支えているものがより遠くから運ばれてくるので、そこに関わる人の数は激増し、そしてよりその一人一人の顔が見えなくなってきました。

 そんな変化を続ける中で、私たちの「誠実」も変化しているはずです。

 近代以前では、八百屋のおばちゃんに挨拶をしてジャガイモを購入し、農家の生産者さんに「おいしかったよ!」と伝えることが簡単にできたのですが、今ファーストフードのお店でポテトを食べても店員に感謝を伝えることさえも難しい状況があります。そのようにあらゆる人を想い、心を伝えることを「誠実」と言うならば、その対象範囲はどんどんどんどん広がっていき、より困難になってきたとも言えます。

 これまでは食材に毒を入れたら近くの誰かがそれを買って、死んでしまったけど、今は地球の裏側の人が死んでしまうかもしれないので、目に見えないのです。だから、毒を入れないようにする心がけを「誠実」というならば、それはより希薄になっているでしょう。

 私たちは、時代と共に劇的に変わる「誠実」について真面目に考えなければいけないし、これからもその時代時代に合った新たな「誠実」を模索しアップデートし続けねばならないと、「人間分子の関係、網目の法則」は教えてくれるのです。

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「誠実」は変容し多様化するのか

 さて、今、この世界で拡大を続けるパワーがあります。テクノロジーです。人工知能やコンピューテーショナルな技術体系の進化です。この発展によって、今後我々人類は、「AI+BI(ベーシックインカム)型」の生き方をする人々と、「AI+VC(ベンチャーキャピタル)型」の生き方をする人々に分かれていくことが近年示唆され始めています。テクノロジーの発展によって、近代以後の効率性や合理性が保たれたまま、近代以前の多様性も実現される社会の下では、ベーシックインカム的な仕組みはあらゆるところで創られていくと考えられ、それによって働きたいときに働いて生活する人々(AI+BI型)が生存可能になってきます。また、そういった技術体系を駆使して、より何かを生み出していこうとする人々(AI+VC型)も現れます。

 ともすれば「AI+VC型」の人々の一部がテクノロジーを駆使して、都合の良い「自然」を創り出していく世界観にも突入していくでしょう。こういった世界観では、人間がイルカを出産することが可能になるかもしれません。しかし、環境問題を始め、多くの都合の悪い「自然」は、存在し続けます。地球が壊れたら人間は滅ぶし、ウイルスなどで全滅するかもしれません。ほぼ間違いなく我々はいずれ土に還るし、宇宙ゴミの一つになることでしょう。

 そういった世界観が訪れると、我々は果たして「なに」なのかという問いはより混迷を極めることになります。

 先ほどの「人間分子の関係、網目の法則」は、ブロックチェーンなどの技術実装によって、可視化されていくと予想されます。先ほど出てきた粉ミルクに関わった人の「数」はもとより、一人一人の「顔」や「プロフィール」「SNS」の情報までも、買った人(コペル君)がスマホ一つで見れるようになる時代の到来もそう遠くはないかもしれません。それは網目の法則が拡大しすぎた世界での「誠実」を追い求めた末の進化なのかもしれません。

 例えば、近代では、それこそ「Win-Winな関係」(どっちもそれなりに得をする関係)を創ることこそが「誠実」であったかもしれませんし、「平等」という概念に基づいて、全ての人に同じだけの機会を提供するのが「誠実」であったかもしれません。

 しかし、「AI+BI型」と「AI+VC型」に分かれた時代では、交換手段も多様化し、個々の在り方自体も多様化していくと考えられるので、「得」などという近代のフレームでは、太刀打ちできなくなるとも考えられます。無論「得」や「損」などどうでもいいと言う人が出現するでしょうし、倫理観さえも変容していくはずです。

 このように、これまで、今、そしてこれから、時代ごとに「誠実」のカタチも変化していくでしょう。

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 しかし、ここでは、その全てに共通する、変わらない「誠実」について、見つめておこうと思います。

 ここからは、どんな時代が来ても、どんな世界観が訪れても、変わらない「誠実」の正体を探ります。

「誠実」は「まさにそうである」

 「誠実」という言葉は、「誠」という字と、「実」という字からできています。「誠」は「本当」や「真実」「安心する状態」を表す漢字です。「実」を「実際」や「事実」などの言葉から連想すると、「自ずとそうなる状態」や、「今そうなっている状態」を表しているように感じます。この二つの漢字が組み合わさってできた「誠実」という言葉は、「まさにそうである」「真実に自ずとなっていく」「自ずと安心する」などなどといったイメージをすることができます。

 昔の西洋の哲学者たちは、この世界の構成元素の最小単位(本性原理)を「火や水や土」で表したり、「アトム」と言ったり、「アルケー」と言ったり、様々な言い方で表しました。このように紀元前から、「生きる」ことに余裕が出た人類たちは、「なぜ我々は存在するのか」「我々は一体なになのか」ということについて、死後の世界を想像したりしながら、懸命に考え続けてきました。

 それを一つの「解」に基づいて、精神の安定を図ろうとするために創られてきたものが「宗教」であり、「信じる」ということでした。

 今後のテクノロジーの発展を考えると、一つの「解」を与えることで元気に働きだすのは、まるで「機械」のようであると考える人の数が増えるのではないかと思います。

 そうなのです。人間やその他の生物と、それ以外の見分けがつかなくなる世界では、我々はより新たなアイデンティティを模索していく必要があるのです。その中途で、この全てに共通する「誠実」が大切になってくると、僕は考えています。

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「生きる」ということ

 さて、近代の超克によって、近代を形作ったフレームから抜け出し、古来の自然観を再発見し、脱主観を大切にしながら思考している人が導き出す「誠実」とは一体どんなものなのでしょうか。

 ここで、谷川俊太郎さんの有名な詩を引用させていただきたいと思います。ゆっくりと一言ずつ読んでみてください。

生きる

谷川俊太郎 詩

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

 絵本『生きる』(2017年、福音館書店刊)の帯で、谷川俊太郎さんはこのように綴っています。

「そこで何が起こっていても、
誰が何をしていても、
その短い時間の中に
〈永遠〉をはらんでいる。」

 これはまさに、第三回の「日本古来の自然観の再発見」の「一から全、全から一へ」で述べたことと同じようなことです。

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 この詩やコメントから、「誠実」へのある種のヒントを得られるのではないかと考えています。

 近代を超克し、古来の自然観を再発見し、脱主観をした人の心には、もう、たいそうな「意味」は残っていません。だからこそ、この詩の世界が、より輝き、そして谷川俊太郎さんの帯コメントが、圧倒的に腹落ちするのだと思います。

 「生きる」ということ。今、「生きている」ということ。

 これまでの連載を通して、たどり着くのは、この文脈に尽きるのです。ここに帰着するのです。

 これが、今回のタイトル「生に帰した」ということなのです。

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「誠実」であるということ

 「生きているということ」それだけが「全」であり、それだけが素敵であり、それだけが「全て」なのです。

 この文脈は、「だから○○」という「意味」の付与を必要としていません。

 ここに帰着し、自分以外の「生き物」「無機物」「空気」「自然」、そして自分自身に向き合うこと、ただそれだけが「誠実」であると、僕は考えています。

 今後、人類が進んでいく新たなアイデンティティを探す旅には様々な困難が待ち受けているでしょう。もしかしたら、その中途で戦争を起こして自滅するかもしれないし、気候変動や都合の悪い「自然」にやられて絶滅してしまうかもしれません。しかし、必ずや、人類が「生」に根差した「誠実性」を取り戻す日が来るのではないかと僕は考えています。

 これは、「近代」に溺れた人にも、「意味」で雁字搦めになった人にも、分からない世界観です。

 これまでの連載でも書いてきたように、日本人は世界の中でも本来この「誠実」に一番近い場所にいるのではないかと考えています。古来より豊かな自然環境の中で独特の自然観を育んでいたり、異文化を柔軟に受け入れ独自のカタチに変えていく精神的柔和性があったり、「君たちはどう生きるか」が大ベストセラーを繰り返したり、「生きる」という詩が教科書に載っていたり。

 連載『損得を超えた誠実を求めて』で書いてきた過程、及び文脈を大切にした上で、「生」に帰した「誠実」を大切にして生きようとする人が、少しでも、ほんの少しでも増えたらいいなぁと、私は、ただ、想い続けています。

 そして、この連載を通して書き連ねてきたことを「前提」として、物事や他の生きものと向き合い、愛し、愛され、助け、助けられ、自分の生きる道、つまり「人生」を自分で、自分自身が、自分自身で、歩いてゆける人が増えることを、心から願っています。

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僕から誠実に「生きている」

あなたに伝えよう。

あなたは、今、生きている。


ただ、ただ、「生きている」あなたを

僕は愛している。

生きている。

ただ、生きているのである。

僕はそれを知っている。

僕だけは、絶対にそれを忘れない。

僕だけは、絶対にそれを忘れない。


( お わ り )


※追記(2023/3/18)
ここでいう「生」という言葉は、その後著者は「いのち」といふ言葉で表すようになる。それは、「生命」(心臓が動いていること)の、「生」ではなく、そうした「生」や「死」を飛び越えた「全」としての「いのち」の話でもある。そうした話は、下記「認識」についての文章を参照せられたいが、それを読む前に、落合陽一さんの『デジタルネイチャー』を読むことをオススメする。



大丈夫.