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業(ぎょう)について考えてみた

ほぼ毎日、かまどで火を焚くようになってそろそろ2ヶ月になる。
米炊き以外にも、焚き火や石窯などに火を入れる機会が増えた。
火を見てると、なんだかトロトロと眠くなる。ぼんやりした頭で色々な考えが巡ったりする。火は危ないけど、癒し効果もあると私は感じている。

火の動画をSNSで上げた時には友達が「すごくいい!」と言ってくれたこともあった。

2ヶ月の間に気候は変わり、米の水の温度も変わり、雨が降ったり風が吹いたり。
初心者なので、うまくいくかどうか毎日毎日必死だ。

ご飯がうまく炊き上がるかどうかは30分のむらし時間を経て分かる。
味がイマイチだとガックリくる。

炊けてないわけではないけれど、
「こりゃめちゃくちゃ美味しいぞ!」というクオリティを知ってしまっていると
どうもモヤモヤする。
安定して、同じクオリティを、毎回出す、というのは
本当に大変なことだ、とつくづく感じる。

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「これはいわゆる業(ぎょう)だね」
最近、はがまご飯を食べてもらった方に言われた言葉だ。

ぎょう?
ぎょうとはなんだ。


対価を得る目的で反復的継続的に行う行為
仕事、職業、産業などを指す。
商業(しょうぎょう)、副業(ふくぎょう)など。
また、苦労して成し遂げる事柄という意味
カルマ(梵: कर्मन् karman)に由来し、行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する語。 原義においては単なる行為(action)という意味であり、「良い」「悪い」といった色はなく、特に暗いニュアンスはない。
                          ( Wikipediaより引用)

なるほど、業。

お客さんの言葉を推察するに
米をはがまで炊くという行為は
米のうまさ、凄さに関わらず
「毎日行うことに意義がある」
と解釈してもらったというところだろう。

毎日何かと落ち着いて、腰を据えて向き合うことは
ここ最近の生活にはなかった。
少し習い事を去年から始めたので、その時間くらいだっただろう。
それも他人との対峙があるので、孤独ではないのだが。

とにかくじっくり観察し続けなければ、息をかけておかなければ
火は安定しないし、なんなら鎮火してしまう。
火口からぽろっと火のついたままの枝が溢れて大ごとになる可能性だってある。

火は危ない、だから神経を無意識に使っているのだろう。
孤独に、ただひたすら、火の燃え上がりと向き合う。
ふーっと息を吹きかける。
いいことでも悪いことでもなく、ただ淡々とやる。

その繰り返しは少し私の気持ちをすっきりさせてくれるようになった。
今、この瞬間にだけ集中しよう。
今は燃え上がりのことだけ考えよう。

と割り切れるようになったのはここ数日のことだ。

それは映画の「日々是好日」を観たためだ。
樹木希林さん演じる茶道の先生の「意味なんかないのよ、ただやるのよ」
という言葉に

「そっか」と
妙に納得してしまったのだ。

米炊きの意味、火を炊く意味、向き合う意味をとにかく得なければいけない
繰り返すだけじゃダメだ、意味がなければ。
どうしてやるのか、人に聞かれたら答えないといけない。

そんな思いがいつの間にか私の肩を力ませていたのだろう。

ある時全然火があがらず、悩んだ時期があった。
他の人に見てもらったら意外と原因は簡単なことだった。

焦りと不安とで闇雲に火を起こそうとしていた私では到底気づかないような原因だった。
意味がない、やる意義がない、人に評価されない、というジリジリした思いが
目の前の火と向き合うことを忘れさせていた。

ただ目の前の火と向き合うだけ。意味はない。それが業(ぎょう)。

それがこれからどうなるのか、意味はあるのかを追求する必要はない。
ただ目の前の火と会話し続けさえすればいい。

やっとそう思えるようになってきた。
文明は進んで、今はボタンひとつ、クリックひとつで向き合うステップを軽く超えられるようになった。
現代っ子の私には、火を起こすという業に向き合う力もなかったのだ。
まずはその事実を受け止め、改めて業を重ねていこうと思う。

終わり

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