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異界へようこそースクランブル交差点

 地下鉄の表参道駅で電車を乗り換えたら、魔女風に目の周り黒くし、赤い口紅も毒々しく、青白く厚塗りした女が車両に乗ってきた。尖がった黒い帽子、黒マント姿の子どもも連れている。
ひどく禍々しい風体だというのに、乗客は誰も気にしていないといった様子で、知らん顔を決め込んでいる。
(そうか、今日は10月末でハローウィンだったのだ。渋谷は今の時刻から、ああいった連中で混雑するに違いない)
夕方の時間帯に、渋谷の道玄坂にある歯科医院を予約したことを、僕は少し後悔した。ハローウィンは、アメリカのテレビドラマでは往々に登場する風習だが、遡ればケルトの祭りに由来する。そこまで知っている人がどれほどいるかは知らないが、今や10月ともなれば、ハローウィンを象徴するカボチャのグッズや菓子が店頭に並び、秋の街の賑わいに彩を添える。

 ハローウィンの日の渋谷の街に、不気味な恰好をした連中が集まるようになったのは、いつ頃からだろうか。すぐに社会現象となって広がり、ここ数年はどぎつく仮装して集まった若者が、酔って徘徊したり自動車を倒して乱痴気騒ぎになるので、警察まで出動するほどになっている。
(歯医者の診察が終わるころには、大騒ぎが始まっているに違いない。まったくうんざりするぜ)

 ハチ公前のスクランブル交差点は、いつもよりたくさんの人の波が行き交っていた。押し寄せるよう向かってくる人々の中には、まだ明るいというのに仮装した人々も混じっている。

 ユリを見かけたのは、そんな人の波の中だった。

 意外な再会に驚いて
「ユリ!」
と大きく叫んだ。
すると次の瞬間、長い髪の女がこちらに振り向いて、かけ寄ってきた。やっぱりユリだ。細身の体つきは昔と変わらない。
「イチロウなの?本当にイチロウなの?」
すぐさまユリは僕の手にしがみついてきた。目を丸くして見つめる瞳に、どこか怯えたような影がある。それから、懇願するように小さくささやいた。
「助けて、追いかけられているの」
周囲を見回すと少し離れたところに、青白い蛍光塗料を塗った骸骨の全身タイツを着た男が、こちらをじっと見ている。
薄気味悪い奴だ。
「わかった。ともかくこっちへ行こう」
ユリの手をぐいと掴むと、交差点を渡り切り人混みをかき分けて、その先へと足早に歩いた。
骸骨男も追いかけてくる。

僕たちはすぐ小走りになり、その先の百貨店前の角を目指した。
これで骸骨男との距離は、かなり開いたと思えたけれど、油断はできない。
道玄坂下の角を曲がると、僕もユリも少し息が切れていた。もう追ってこないだろう、と思ったので目の前のカフェへ飛び込んだ。

 ユリは大学時代の恋人だった。
こうして目の前にすると、20年近い昔が昨日のように蘇ってくる。

 初めて出会ったのは、友人のタカギが主催した合コンだった。
僕は男女共学の大学にいた。こちらに付き合う気さえあれば、それほど、女の子に不自由しなかっただろう。だけど正直な話、中学、高校と男子校だったので、女の子を相手に何を話したらいいのかわからなかったし、こまめに連絡をとって付き合うのが面倒くさかった。
だから、それほど乗り気ではなかったけれど、タカギから人数合わせに来てくれと頼まれ、たまにはそういう場所に行くのもいいか、と行くことにしたのだった。

 集まった男子は、キャンパスで顔見知りだったけれど、女子は女子大の学生ばかりだった。それが、ある意味新鮮といえば新鮮だった。
ユリはその中の一人で、口数が少なく地味な印象だった。眼鏡をかけ、髪の毛を後ろに引っつめていた。派手な化粧だったり華やかな洋服を着ている女の子の中では、さほど目を引かなかったけれど、お互いの紹介が終わって隣り合わせたとき、話が弾んだ。
美術展を観に行くのが好きというので、僕は当時開催中だったエゴン・シーレ展の話をしてみた。

 エゴン・シーレは、オーストリアの夭折の画家として知られている。19世紀末のオーストリアを代表する画家、クリムトの影響を大きく受け、後継者と目されていた。しかし後期のシーレ作品は、クリムトをエキセントリックに凌駕した、妖しい魅力がある。彼女もシーレが好きだと言うので、もっと話が聞きたいと膝を乗り出したとき
「おい、まいったなぁ、お二人さん。趣味が高尚なのはわかるけどさ」
とタカギが笑いながら僕たちの間に割って入ってきた。
輝いた目が一瞬にして元に戻り、頬を赤らめて
「ごめんなさい、浮いてしまったかしら」
とユリは目を伏せた。
 合コンで交わした話はそれきりになったが、美術に興味のあった僕は、ユリの感性を面白いと感じて携帯電話の番号を交換し、また会うことにした。それが僕たちの付き合いの始まりだ。

 ユリとは音楽をたくさん聴いて、映画をたくさん観て、美術館にもよく行った。南米やヨーロッパ辺境の音楽は僕の知らなかった世界だったし、ハリウッド以外のイタリアやフランスの映画の、リズムや空気感の違いをユリは教えてくれた。その中でもとくに影響されたのは、絵画の見方だった。

 クリムトの作品展を観に行ったときのことだ。
僕が『接吻』や『抱擁』など恋人たちの恍惚感や、金箔を貼った地の色に散りばめられた、幾何学的な模様に惹かれたと言うと
「色が豊かだし、豪華な感じがいいわね。どこか退廃的なのは、世紀末だからかしら。
私は『生と死の気配』というタイトルの絵が、妙に気になるの。年齢も性別も違う人間が、固まりのように折り重なっているのを、死神が離れて見ているという構図。毒があるというか、不吉というか」
そういう視点が新鮮だった。僕の見方は表面的で、あまり洞察力がなかったから。僕たちが親密になるのに、時間はかからなかった。

 カフェで久しぶりにユリを前にすると、昔の記憶が波のように幾重にも押し寄せてくる。恋人に限らず、古い知り合いに会う事は、ちょっとしたタイムトラベルかもしれない。
「ずいぶん久しぶりだね。だけど君は少しも変わっていない。というか、大人っぽくなって素敵だよ」
思いがけない再会に興奮しながら、話の口火を切った。
「あれから何人かと付き合いはしたけれど、結婚する気になれずこの歳まで独身さ。でも、とうとうまた出会えた」
店に入るなり、人前でためらうことなく手を握ったほど、僕の気持ちは高揚していた。すると手の下でユリの小さな拳が握りしめられ、小刻みに震えているのがわかった。それほど怖かったのだね、可哀そうに。
いつも冷たい手だったけど、今日もひんやりしている。
ユリの怯え具合がやや気になった。
「どうしたの?あの骸骨男につきまとわれ、追われていたのかい」
ユリはゆっくり頷いた。伏せた目の睫毛が白い顔に影を落としていた。
「ええ、まあ…。ねぇ、もしかしたらどこかで、あいつが見張ってるかもしれない」
顔を上げると、落ち着かない様子であたりをキョロキョロ見回し、入り口に人影が見えるたびにビクッと肩を震わせた。
「大丈夫だよ。まさかこの店の中までやってきて、君に危害を加えることはあるまい。もし手を出したら、僕が承知しないさ」
おどけて、右手でパンチの真似をしながらそう言うと、クスリと笑い安心したような顔になったので、僕は今までの事を語ることにした。

 昔の話に戻ろう。

 付き合い始めて2年ほど経ってから、お互いの両親に結婚を前提に付き合っていると、紹介する事になった。

 先方のご両親が、僕についてどんな印象を持ったかわからないが、僕の両親は彼女に会うなり、気に入ったようだ。品のある物腰から、躾が行き届いていると感じたのだろう。僕は一人っ子で父と3人家族だった。女の子も欲しかった母は娘のように可愛がり、僕がいなくても料理を教えたり茶道の手ほどきをしたい、といって頻繁に家に招いた。

 そんな日々を重ねるうち、別れは急にやってきた。しかも僕の方から一方的に。

今だったら、後ろめたさはあるけれど冷静に話せる。
まずは謝らなければならない。許してもらえるかは別の話として。
「あの時は、本当にすまなかった。すごく後悔しているんだ。言い訳がましく聞こえたら許してほしいんだけど、実はおふくろが急に妙な事をいいだしてね」

 経緯はこうだ。
おふくろは占いに凝っていた。中国の占法の気学を習っていたので、祐気採りと称して小さな旅行に出かけ、そこの土地の水を汲んできたり、近くの神社まで散歩に出かけたりしていた。方位がいいからだそうだ。そればかりではない。よく当たる占い師とか霊能者がいると聞けば、すぐそこを訪ねた。当然ユリとのことも気学ばかりでなく、四柱推命、算命学といった占いの権威を訪ね、鑑定してもらっていた。そこでユリの性格や僕との相性について太鼓判を押され、卒業したら頃合いを見計らって結婚へ、と話は進んでいた。

 しかしある日のこと、何でもズバリと当てる霊能者がいると友人から聞いて、母はダメ出しのようにそこを訪ねたのだ。
結果は最悪だった。相性はともかく、ユリが子どもを成す前に病死する、という決定的な烙印を押されたらしい。
母は不吉に感じたらしく、手のひらを反すようにユリを遠ざけ始めた。
最初のうちこそ母の態度に憤慨し、当たるも八卦当たらぬも八卦だからと、僕はユリと会い続けていた。

 そのうち就職活動や卒論などで忙しくなり、以前ほどユリと頻繁に会う時間が、作れなくなった頃のことだ。
タイミングが悪いことに、ユリが過労で身体を壊した。病院では極度の貧血と診断されたらしい。喫茶店のアルバイトと家庭教師の掛け持ちで、無理がたたったのだろう。自宅で療養する日が続いた。
軽い気持ちで母にそのことを伝えると、母は大げさに眉をひそめた。そしてあの霊能者の言うことが、当たらなければいいけれど、とにかく僕は大事な跡取りなのだから、と強調した。
僕は僕で、自宅で療養する彼女をしばしば見舞うのが、億劫になっていた。どこにも出かけられないし、ユリの家族と距離が縮まっていくのも重かった。だから何となく腰が引けてしまって、連絡をしなくなってしまった。そうこうしているうちに、ユリからもほとんど連絡がなくなってしまい、ちょっとほっとしていたというのが正直なところだ。

 この話はユリに失礼で、とても話せるものではない。
そこをわきまえて言葉を濁しながら、急に離れた理由を手短かにしたが、話せば話すほど自分の身勝手さ、冷めたさに罪悪感を感じた。

 ユリもまた、今日までの事を語りだした。
「あの時は体を壊したうえに、あなたからの連絡が途絶えて、とても辛かったわ。
…あなた、鬱病って患ったことはある?多分私は鬱病だったに違いない。
世界が日に日に色褪せていき、ついには色を失ってモノクロームになってしまうの。よく植物になりたいと思った。草花だったら感情がないから、楽なのではないかと。たった一人の昼は長かったし、夜はもっと長かったもの」

 ユリの低く歌うような口調は、以前と少しも変わっていない。僕を通り抜けてさらに遠くを見るような眼差しも。
「眠れないので受診したときにそう話すと、医者が精神安定剤を処方してくれた。それを飲むと、ある瞬間にいきなりスコンと穴に突き落とされるように眠れるの。昼も夜も関係なく、朦朧として死んだように生きている日が続いたわ。いや、生きているように死んでいたのかもしれない」。

感受性の強いユリなら、そうなったことが想像できる。何て辛い思いをさせたのだろう。自分を責めた。胸が苦しくなった。

「親が見かねて精神科、今だったら心療内科というのかしら。そこで診てもらおうと私を引っ張るように連れていったの。そこで出会った医師が夫になった人だった。
幸い鬱病がよくなると、それに同調するように体の具合も回復して、1年留年して大学を卒業すると、彼とすぐに結婚したわ。そして子どもを授かった」。

(そうだったのか。辛い思いをさせてしまったけれど、ともかく今は幸せなのか)
安堵と、ほんの少しがっかりした気持ちが入り混じり、胸の内は複雑だった。

 話に夢中になっている間に、日は落ちていた。
外は魔女、吸血鬼、フランケンシュタイン、青白い顔で血を流したメイド、オオカミ男の姿が目立ってきたが、ビールで早々と酔った輩がたくさん行き来し、騒がしくなり始めていた。
ちょっと不穏な空気が漂ってきたので、落ち着ける場所に行こうということになった。
このまま別れたくないし、乱痴気騒ぎに巻き込まれずに、ゆっくり話せる場所はないものだろうかと、ユリも思ったに違いない。

足は自然に道玄坂から円山町界隈に向かっていた。
昔の花街だった名残りで、ラブホテルが集まっている場所だ。
その一軒にユリと一緒に、吸い込まれるように入っていったのは、自然の成り行きだったといえるだろう。ユリも同じ思いだったと思う。

「で、今は人妻ってわけ?」
ホテルに入ったことで、いちおう二人だけのスペースが確保された。僕はその後ユリがどう過ごしてきたのか、さらに話を聞きたくなり促すように先ほどの話題を続けた。

 室内は淫靡な色合いの橙色の灯りが、薄暗く灯ってはいるものの、意外と小ざっぱりしていた。
窓が小さいので圧迫感がある。ベッドやその他に、いろいろと仕掛けのある風ではあるが、そこに気持ちを向けるゆとりはなく、とにかく話を聞きたかった。さらに言えば懐かしいユリの声を聴き続けたかったのだ。
「いえ、別れたわ。子どもを早産で失ったの。それ以後、夫とはうまくいかなくなって」
(なんだ、それじゃお互いに独身じゃないか。こういう所に二人で居るとしても、不倫ということにはならない)
身勝手さが、ここでもまた顔をのぞかせた。

 ユリはもっと話したそうにしていたが、ふと黙ると首を強く振ってから言った。
「昔のことよ、それは。今はどうでもいいじゃないの…」
それから下心を見透かすように、ユリが覆いかぶさり僕の唇をふさいだ。
柔らかい唇の感触が懐かしい。
そう、ユリの黒髪はこの匂いだったのだ。
 そう感じるとたまらなくなって、ユリを押し倒して髪に顔を埋めた。鼻腔をくすぐる髪の匂い、しっとりした感触…。
少し汗ばんだ肌は手に吸いつき、ミルクの香りがほんのりと漂った。次の瞬間、僕の中で凶暴な力が弾けた。
野獣となって荒れ狂う僕に、ユリは白い身体をしならせて応えてくれた。
そうそう、この感覚。凹凸がピタリと重なり合う快感は、ある種の安堵感さえあった。
学生時代のそれは、振り返れば本能の奔流に流されるままで、稚拙だった。女性の身体の扱い方を、知らなかったからだと言えるだろう。しかし今は違う。女漁りをしたわけではないが、これまで数人の女性と交際した。中にはスポーツのように、あるいは握手をするようにセックスを楽しむ女性もいた。そういった女たちとユリは違う。そう思って睦み合うせいもあるかもしれないが、多分、身体も気持ちも一つに溶け合う、とはこういう感覚なのだろう。

 歓を尽くす、という言葉がある。
その夜の僕たちは、そういう状態だった。

 何時間一緒にいたのだろう。時間の流れすらわからなかった。
僕たちは呆けたように疲れ果て、眠りに落ちようとしていた。
翌朝はここを出て別れなくてはならない、という思いが頭をかすめた。
すると急に別れが惜しくなって、ぐったりしているユリの細い肩を背中から抱きしめた。

 そのとき、ゆっくりとこちらを向いて
「ねぇ、お願いがあるの」
ユリのかすれた声が、朦朧とした頭に響いた。
「明日は仕事が早いの。だから、あなたより早くここを出なければならない。静かに身支度するけれど、あなたはゆっくり寝ていてね。それから目が醒めたとしても、私を見ないで。私はあの時ほど若くないの。朝の明るい光の中で私の姿を見られたら、とても恥ずかしくて生きていけないわ」
「ああ」
という生返事が気になったのだろう。
「絶対よ、お願いよ」
ユリは力をこめて言い、目はまっすぐ僕を見つめていた。
返事をしたかしないか、定かではない。僕はさらわれるように、眠りに落ちていった。

 どのくらい眠っていたのかわからないが、ともかく夢を見た。

 僕たちは結婚していた。とても幸せだった。そしてユリは僕の子供を宿した。しかし、9か月に入ったとき、子供が早産になり亡くなってしまった。悲しみに沈む僕たちを見下ろして、母が勝ち誇ったように「ほら、ごらん。私が言ったとおりになったじゃないの」と言い捨てた。
僕は泣きながらユリを抱きしめた。その瞬間、母や早産した子どもの亡骸も含めて、少し離れて僕たちをじっと見つめている黒い影に気づいた。
クリムトの絵にあった死の気配、死神だ。頭蓋骨の眼窩から鋭く冷たい目が、じっとこちらを見つめている。
 腕の中のユリはというと、みるみるうちに頼りなくやせ細り、手ごたえがなくなっていく。
そして腕からスルリと抜け落ち、残骸のような半透明のモヤモヤとなって、やがて消えてしまった。まるで淡雪のように。
消え際の哀願するような目を見て、悲しくてたまらなくなりすすり泣いた。やがてそれは、嗚咽となり号泣に変わっていった。

 ひとしきりすると、自分の泣き声で目が覚めた。胸を締めつける悲しみは、夢の中と変わらない。夢と現実での感情が重なり、こうして一緒に過ごしているのさえ実は夢ではないか、と思うとたまらなく不安にもなった。

確かめるように隣を見ると、ユリが毛布をかぶって背を向けて寝ていた。
(やっぱりユリと会っているのは現実で、隣にいるじゃないか)
時計を見たら、朝の5時を過ぎている。
早いので、ここを出て一度家に戻ってから出社しようと考え、下着をつけてから靴下を探してベッドのまわりをうろうろした。

 その時、僕は再び不安にかられて確かめたくなった。
ユリは本当にユリなのか。
(急に起こされてユリが怒ったとしても、びっくりさせたかったと言えばいいじゃないか。それに、恥ずかしがる仕草も、また可愛いかもしれない)
心の中で妙な言い訳をしながら、小さく細い身体を覆う毛布をそっとまくった。

 が、まだ明けきらない朝の薄明の中で振り向いたのは、長い白髪を藁のようにバサバサに乱した老婆だった。
ユリではない。化け物だ。

 老婆は膝を抱えて胎児のように丸くなっていたが、枯れ木のようなゴツゴツした細い手で、毛布を慌てて手繰り寄せた。節くれだった指に灰色の爪が長く尖っている。そしてシミとシワに囲まれた顔を毛布から出すと、垂れ下がった瞼をこじ開けて僕をじっと見詰めた。
落ちくぼんだ目はどろりと黄色く濁り、眉は薄くて土壁色の皮膚と境がない。頬がげっそりとこけている。そいつがおもむろに口を開いた。歯の抜け落ちた口はまるで木の洞のようで、そこから紫がかった舌がちろちろと見え隠れしている。
「あれほど頼んだのに。あなたは一度ならず、二度も私を裏切った。なんてひどい仕打ち…」
目の前で起きていることを理解しようとする前に、首から腰にかけて冷たいものが走った。身がすくみ、全身が音を立てて総毛立った。
次の瞬間、僕は着ていたもの一切、靴までも抱えると、反射的に部屋を飛び出した。

*                         *

 まだ明けきらない朝、トランクス1枚の男が息せき切って円山町のホテルを飛び出した。男はそのまま坂を駆け上がったところで、周囲に衣類や持ち物をぶちまけると、尻餅をついてへたり込んだ。顔面は紙のように白く、肩で大きく息をしている。

その男の横を、骸骨の全身タイツ姿の男が足早に通り過ぎた。
すれ違いざまに、裸同然で腰を抜かしている男にちらりと目をくれると、鼻を「フン」と鳴らしながら。

 坂の上は、井の頭線の神泉駅に通じる。早朝は時間的に人通りが少ないとはいえ、電車を利用する人がまばらに行き交い始めていた。しかし渋谷の街では、乱痴気騒ぎの異様な光景に慣れているせいか、この男を怪訝な目で見たり、足を止める人は誰もいなかった。




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