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漫画家志望だった私が、同人誌即売会の主催を成功させた話。

「天職だと感じた瞬間」についてのテーマということで、2003年に私が個人主催した同人誌即売会体験についてお話します。



漫画家志望から、同人誌を出すようになるまで。


私は物心ついた頃からずっと漫画家志望で、幼稚園からコマ割りのお絵かきをしていました。両親も自分の夢を諦めて建築士と教師になった人なので、ありがたいことに全面的に応援してくれて。親戚にも画家やバイオリニストなど自由業が多く、暖かく親身に支援してくれたものです。


本格的に自作の同人誌を製作するようになったのが、15歳。都内の女子校に進学すると、美術選択クラスには美大を目指す子や、既にプロレベルで漫画を描いている同級生が数人。未熟な私は少しでも彼女達に追いつきたくて、毎日必死に作品を製作。特にGペン技術を磨きました。若い才能に囲まれて刺激を受け続けて、三年程で自分でも驚くレベルに達していきます。

印刷や紙の種類、スクリーントーンやインクの発色にこだわる仲間との交流は、創作するだけではなく印刷技術や知識の探究を深めてくれたし、印刷屋さんで学んだ知識もその後も色々と役立ち、感謝しています。


高校時代には木造三回建てだった、アニメイト本店。


プロの漫画家よりも、大手サークルを目指して。


文化服装学院へ進学して毎年二回のコミック・マーケットに参加するようになると、高校以外の友達がたくさんできるように。特にスラムダンクブームの隆盛に乗った私は、二次創作の同人誌発行部数が格段に伸びて、それに比例してネームの構成力やペン入れテクニックも向上。どんどん自信をつけていきます。

「一日のイベントで、3000部はけるような壁大手サークルになりたい」と、夢が具現化したのはこの頃。

ただ、「このままアニメや漫画の同人誌を出しているだけでは、将来的に食べていけない。先詰まりしない為にもプロデビューを経験すべきではないか」「オリジナル創作にも挑戦してみたい」と気づきまして。30歳になってからはアルバイトをしつつ、雑誌向けの原稿を描くようになります。

一つの作品画仕上がると、都内の有名出版社に一日四件巡る予約を入れて持ち込みをしました。この時に不安だったのは、自分が本心から「ここで描きたい」と熱望する雑誌が無かったこと。まだ今のようにゲーム業界も発展していなくて、漫画雑誌のジャンル分けといえば「少年誌」「青年誌」「少女誌」「女性誌」くらいで。やっと角川書店のガンダムエースが名前を知られるようになったばかりでした。

そんな中、ひとつだけ少年誌と女性誌の間に存在する漫画が、講談社の「Amie」、「なかよし」のお姉さん雑誌です。偶然入れた持ち込み予約の日に見て下さったのが、その頃「南国少年パプアくん」などで人気の柴田亜美さんの担当だった方。とてもパラフルで優しくて、「この人について行こう」という不思議なポジティブさに満ちたのを覚えています。


すっかり再開発された、浜松町のモノレール駅。


プロデビューをしそこなり、再びコミケへ。


私が描いた32ページの作品はその担当さんの興味を強く惹くことができて、「これはトップの賞を取れるかもしれない。他にもアイデアがあるなら、どんどん相談して」と本当にありがたい言葉も頂きました。漫画家になる為に頑張ろうと日夜努力し続けていた身には、ここで未来を見通せる気がしていたのです。

ところがそんな私に、大きな衝撃が落ちます。少女誌の人気低迷期でAmiが廃刊になってしまったのです。受賞するかもしれなかった作品はそれでお蔵入り。担当者さんからは、長く丁寧なお詫びの手紙と「良ければ、講談社アフタヌーンに紹介する」との旨が。



漫画家志望仲間では結構有名な話ですが、その頃「アフタヌーンは割と簡単にデビューできるが連載まではかなり難しく、長くアシスタント活動をさせられることになる」と噂になっていました。

何より私が目指す作品の世界観と雑誌の個性がまるで違う。私はそこで、商業誌でのデビューに見切りをつけて再びコミケに戻りました。正直なところ、ゲームに押されていく日本の漫画雑誌に、明るい未来を見出せなくなっていたんですね。

コミケに行けば才能に溢れたアマチュアサークルが満ち溢れていて、デビューをしなくても大量の同人誌がたくさんの人に読んでもらえる。担当者のお眼鏡にかなわなくても、自由に描いたものをカラー表紙で形にできるんです。ネットがまだそんなに普及していなかった当時、ボツになった投稿作品は日の目を見ずに消えていきます。何ヶ月と汗水流して身体と魂を削り生み出すも、全て無駄になってしまう。

何より辛かったのは、一人でずっと家に篭り投稿漫画を作っていると、コミケでできた仲間との縁が希薄になってしまうんです。これがとにかく滅茶苦茶しんどい。モチベーションも下りまくりで、せっかく作った原稿も誰にも見てもらえない悪循環。そして特別に心から描きたいと思える雑誌も無くて、そんな暗い先行きの見えない場所からとにかく脱却したかった。


コミケにて、1000部売ることを目指して。


「封神演義」や「HxH」、「ヒカルの碁」「遊戯王」などのビッグタイトルが少年ジャンプを毎週飾り、次々とアニメ化されていた頃。私は漫画を描くことに疲れ果てて、身体の不調も長く続いたことから小説も書くようになりました。幼稚園からの幼馴染みが「文章も上手いんだから、小説を書いてみれば?」と勧めてくれたのがきっかけ。

私はそれまでも、漫画を描く傍ら旅行記やアニメのレビューを朝日新聞に投稿して、そのたびに掲載されていました。二千円の図書カードがプレゼントされるのがありがたかったし、何より創作へのモチベーションが上がる。プロの新聞編集さんとのやり取りも、日々に充実をくれたり。だから文章構成には少し自信があって、まずネットにてブログサイトを立ち上げて更新を続けました。


ハマっていたジャンルに勢いがある時期だったので、数ヶ月読み応えのある長めの作品をアップしてみたらどんどん閲覧数が増加。一日に見てくれている人が800人から1200人、そのうち2000人に到達するように。メールにて「作品を同人誌にはまとめられないのですか」というリクエストや、台湾や韓国の方からも応援をもらったり、とても嬉しかった。

久しぶりに二次創作の同人誌を、漫画と小説混在で発行したのが2002年。最初のイベント参加はなかなか緊張しましたが、経験からして手応えを感じていて。まず試しに出した100冊が一時間半で完売。それから呼吸をするように新刊を出し続けました。二ヶ月に一度は読み応えのある厚さの同人誌を出して、通販作業も自分でこなす。体力的にかなり大変でしたが、充実した毎日でした。


ビッグサイトの近く、お台場の夕暮れ。


「主催で、個人即売会を開いてみよう!」


そんな中で、「そろそろ私でも、個人主催の同人誌即売会を一人で開けるのではないか」という希望が生まれてきます。

2001年頃は、人気の二次創作サークルが集客数2000人のイベントを開催するブームにありました。主に浅草橋や浜松町の古い小さな物流センター的な建物が会場で、複数の作家さんが合同主催する事が多かった。私も1998年に、友人と地元の大きな展示ビルにて共同主催を経験しています。

今では「カップリングオンリーイベント」というと、コミケやコミックシティという大規模即売会の中で、サークル同士が同じビッグサイト内の敷地にて主催する形がメインですが、その頃は都内に新築されたお洒落ビルなどで開かれていたんですね。最近はすっかり無くなってしまいましたが。

「おそらく、これが人生最初で最後のオンリーイベント主催になる」と確信した私は、どうしても新築のファッションビルで自分のイベントを運営したかった。

それまでも同人誌即売会で行ってみて、雰囲気も広さも安全性も信頼できる両国の会場を視野に入れて、まずは両親に相談。

「どんなもんか、三人で見学に行こうか」と、建築家だった父が言ってくれて、天気のいい休日に出かけました。ビルの運営スタッフさんとお話をして、契約の流れを確認。周囲の空間やエスカレーター、エレベーターの位置を父に見てもらって、夕方はそのビルにあるレストランで食事をして帰宅。

振り返れば、父に自分のイベントに直接関わってもらったのは、二人で何かを形にすることができた本当に素晴らしい思い出です。会場のレンタル代は、まずは父が半額貸してくれて全額振り込みを決済。


イベント開催までの怒涛の半年間、そして当日へ。


その見学から半年後、2003年の私の誕生日に開催日を設定。それから怒涛の準備期間がスタートしました。告知のチラシを五千枚印刷し、各イベントにて配布。友人にも協力してもらい、仙台や大阪、四国、九州のイベント会場でも撒いてもらったり。チラシの構成や告知ホームページに載せる会場地図作成は、CGデザイナーの従姉妹にお願いしました。最終的にチラシは一万枚刷ったことになるかも。

コミケスタッフ体験のある仲間に当日配布する整理券を作ってもらって、私はひたすら会場や宅配便会社との連携連絡。サークルさんからの質疑応答など、慌ただしくも充実した毎日が過ぎ去っていきました。

一番心配していたのは開催当日の天気。恵まれたことに、2003年の二月は冬晴れが続いていました。主催者である私は始発に駅へ到着。すっかり馴染みになった駅前のファミレスにて朝ご飯をしっかり食べて、会場へ。

すると予想通り既にお客さんが数人、整理券を待っています。自分でも体験したけど、冬の明け方に外にいるのはしんどいものです。来てくれた友達と合流して、整理券配布を開始。三時間もすると1000枚、手元からなくなっていて予備の五百枚を残すところとなります。

パンフレットは売れ残りがないように、2000冊を印刷。しかし開場した10時から「もしかして、足らなくなる?」と予備分を確認することに。100冊ほど余りが残っていたけど、来客数が昼過ぎも続くなら明らかに足らない。

イベントは何もトラブルなく進み、一時半を過ぎると新刊を完売させたサークルさんが、地方への帰り支度を始めます。私たちスタッフもなんとか安心感に包まれて、ご挨拶に来てくれた方々とお話をしたり。もしかしたら同人誌即売会に行って、一番充実の時間がこの辺りかも知れません。

結局、パンフレットはありがたくも一時半に完売。二時過ぎに訪れてくれたお客さんには、仕方なくお渡しできずにそのまま入場してもらいました。現在、私の手元にも一冊しか残っていません。


半年間、自分の魂全てを注ぎ続けたイベントが無事に終了したのが夕方四時。それから二時間で会場全ての機器や机と椅子など撤去しなければなりません。いよいよ疲労度がマックスになりましたが、仲間や従妹弟たちとフルスピードで掃除を終えました。



成功体験と素晴らしい思い出。


打ち上げは、事前に大テーブルを予約していた近くのデニーズにて。両親が費用を出してくれて、全員で祝杯を上げました。気絶するように就寝した翌日には、参加サークルさんからのお礼のメールやたくさんの書き込みに返信を送り、そして父に会場レンタル費を全額返金。

こうして、私の生涯で輝くばかりのイベント主催は終幕したのです。


その後は二ヶ月くらい、気力と体力が戻るのに時間がかかりました。とにかく怠くて身体が重くて、久しぶりに喘息が出まくってしまい……。気が抜けたんでしょうね。北海道の親友に電話すると「声が明るくなってる! 本当にお疲れ様でした。よく頑張りましたね!」と嬉しい言葉が。その時ようやく「終わった」という実感が溢れて、胸が熱くなってしまったのを覚えています。


現在はユニコーンに代替わりしたお台場ガンダム。


あの時、開催した勇気を忘れずに。


即売会主催から20年近く経過し、あれから両親もいなくなって、私は同人誌活動も休止しています。当時の友達ともすっかりご無沙汰で、結婚して家庭を持った仲間も育児に追われているはず。私もすっかりアラハンの中年になってしまいました。

今では、個人サークルが建物を借りて即売会を開催する文化もすっかり無くなったので、最近のコミケ参加者には馴染みのない話だと思います。あの時にイベントを開催したことは、本当に私の財産だし大切な思い出。自分が何かを主催をするという行動にも、とても自信を持てました。


おそらく、自分の好きなアニメや漫画のイベントや企画を立てることは、作品を製作するのと同じくらい、私の中で天職だと思います。またあの頃のような熱い燃え激る情熱で、何かしらお祭りを計画したい。そこにはきっとまた、新しい出会いと体験が溢れているはずだから。



 


#天職だと感じた瞬間


マダム、ムッシュ、貧しい哀れなガンダムオタクにお恵みを……。