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アニメの破壊と、劇場版における再生産 ~wi(l)d-screen baroqueを体感的に理解する~

バジリスクこなみ
https://twitter.com/basilisk_konami
bishibashi.845@gmail.com


 本稿は、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、劇場版)におけるwi(l)d-screen baroqueに関して、TVアニメ版の破壊と再生産という観点から体感的に理解できる形で考察する。ここで指し示す“体感的に……”とは、wi(l)d-screen baroqueというワードを学術的に考察するのではなく、本作品を視聴しただけの、学術的なバックボーンがない人間が読んでも理解できる内容、という意味である。既に学術的考察に関しては先行研究がなされており(*)、加えて著者には秀でた専門知識がないため、あくまでも体感的に、自身の感想を論理的に分解するほうが、価値のある考察になると考えているからである。

 本稿の議論は以下の順序で進む。はじめに、劇場版がいかにしてTVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、TVアニメ版)を破壊し、再生産したかを論ずる(第1節)。次に、第1節における破壊において、何故それを破壊したのかをワイドスクリーンバロックの観点から論ずる(第2節)。そして最後に、前節を踏まえ、wi(l)d-screen baroqueとは何かを体感的に論ずる。

 本稿の主たる目的として、この考察を踏まえて、学術的な思考に及ばずともこの作品単体でワイドスクリーンバロックとwi(l)d-screen baroqueが何かを理解できるということを示していきたい。ワイドスクリーンバロックのジャンルにあたるアルフレッド・べスター『虎よ、虎よ!』を読まなくともよい。『スーパー スタァスペクタクル』の曲に『Jesus Christ Superstar』のオマージュが入っていることがわからなくともよい。そうであっても、wi(l)d-screen baroque、そしてレヴュースタァライト(※TVアニメ版・劇場版双方を指す。以下、同様)を理解できるということを示す。そして、wi(l)d-screen baroqueという言葉を理解し、人々が使用することに関してハードルを下げていきたい。むしろ、直感的な構成にしてあるからこそ、レヴュースタァライトという作品群が評価されていると筆者は考えており、それについても論ずることとする。


* 『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』で大流行!最近話題の概念「ワイドスクリーンバロック」ってなに!?, 水槽脳の栓を抜け SF作家 草野原々のブログ,閲覧日 2022-07-11,

第1節・TVアニメ版の破壊と再生産

 まず、TVアニメ版の破壊とは何か、それが何故最終的な“wi(l)d-screen baroque”への理解に必要なのかを論じてから、本節の論考へ入っていく。
 筆者は先に劇場版を視聴し、その後にTVアニメ版を視聴した。その際に感じたのは、TVアニメ版で出来なかった演出や描写を劇場版で行っていること、加えて、TVアニメ版を一度破壊し、それを再構築(再生産)しているということである。

 本節では、TVアニメ版の構成を考察し、それがwi(l)d-screen baroqueとかけ離れたものであることを論ずる。それを踏まえて、TVアニメ版をいかに再構築し、wi(l)d-screen baroqueを作り上げたかを論ずる。

1.TVアニメ版の“舞台”の薄さ

 TVアニメ版に関しては、“舞台”というよりも戦闘シーンがメインとなっており、舞台がテーマであることを生かし切れていなかった、舞台らしさがなかったと著者は感じた。では逆に、そう感じさせないための舞台らしさとは何であるか。

 TVアニメ版で最も舞台らしさを感じたのは第5話『キラめきのありか』である。この話は、愛城華恋(以下、華恋)と露崎まひる(以下、まひる)の争いを、レヴュー(作中で描かれるキリンが作り出した世界の中での争いのこと)の中で行われる野球で表現していた。2人の争いに関して、野球は一切関係がない。しかし、2人の争いを別の形で表現するという点では、非常に優れた表現であった。

 ここで改めて舞台らしさとは何か、を考えると、その一つのポイントとして非日常感というのが挙げられそうだ。さらに踏み込んで、日常をいかにして非日常的に描くか、が舞台を舞台らしくさせていると仮定する。

 そういった点では、第1話『舞台少女』も、現実からの非日常への飛躍、そして舞台の強調というところで、非常に舞台らしさのある話であった。話の8割ほどを日常的な学校のシーンで埋めつくした後に、突如全くの別空間へ飛び出し、神楽ひかりと星見純那の舞台が始まるという演出は、そこに確かに舞台を感じるものがあった。

 その観点を踏まえると、他の話に関しても“舞台らしさ”は存在するのではないか。その仮説を元にTVアニメ版を振り返って見たが、第1話・第5話以外において、筆者が舞台らしさを感じられるものはなかった。

 ではなぜ舞台らしさを感じられなかったのか。前述の考察から、舞台らしさとは非日常感ではないかと仮定していた。その仮定に基づいて改めて考察してみると、一つは非日常感を示すレヴューがパターン化し、非日常感が薄れてしまったことが挙げられる。さらにもう一つ、歌との連動性が低いと感じられたこと。これが“舞台らしさ”を薄めている一因でもあると筆者は考える。歌との連動性とは何か。後述する劇場版の考察でも示すところであるが、劇場版においてはキャラクターは歌を歌いながら、画面を縦横無尽に動き回る。かつ、演出も歌と連動して大きく変わりながら、場面も全く別のものへ素早く移り変わっていくのが基本である。しかし、TVアニメ版において、歌はバックグラウンドミュージック(BGM)として流れているのが基本であり、“舞台もの”というよりかは“バトルもの”として見たというのが筆者の正直な感想である。それはアニメーションそのものの価値を落とすものではなく、作品として批判しているものでもない。あくまで“舞台もののアニメ”という観点においての批評である。

2.戦闘シーンの単純化

 そもそもレヴュー自体が非日常であるにもかかわらず、基本的にシンプルな戦闘描写が多い。特に、戦闘に関しては剣で斬り合うことがほとんどで、演出において抑揚があまり目立たない。抑揚のなさゆえに、TVアニメ版第1話で感じていたレヴューの非日常感が、話を重ねるごとに薄れていってしまった。

 筆者は舞台・ミュージカルに知見があるわけではないが、劇団四季の『CATS』を鑑賞したことがある。それにおいて、はっきりとTVアニメ版との差を感じたのは“抑揚”である。明るい場面はとことん明るく、かと思えば照明が消えて暗い音楽が突如流れ出す。音、演技、演出、その全てで現在の場面の状況を全力で表現する。

 抑揚がないと、視聴者が慣れてしまう。戦闘そのものに非日常を感じることがなくなってしまう。それでは戦闘描写の必然性があまりない。その戦闘がもっと日常離れしていたり、一般的なミュージカルのような耽美な演出があったりしていれば、より“舞台もののアニメ”としても完成度が高かったと思う。

 ここで改めてTVアニメ第5話『キラめきのありか』に話を戻すが、ほぼ全ての話で、レヴューにおける戦いは非常にシンプルな斬り合い――悪い意味であまりにも秩序に則った――戦闘である。しかし、TVアニメ第5話『キラめきのありか』においては、斬り合いではない。まひるが華恋を吹き飛ばしてもその時点で勝利は決まらない。ストライクを3つ取ったら勝ちというものでもない。筆者がTVアニメ第5話『キラめきのありか』を高く評価するのは、レヴューのルール以外には秩序が存在しない混沌があるからだ。その混沌がより非日常感を視聴者に体感させる。その混沌から表現する2人の関係性こそが、アニメーションとしての表現の良さであると思う。

3.『戯曲 スタァライト』の意味

 加えて、『戯曲 スタァライト』自体がアニメストーリー後半のひかりの謎(ひかりが失踪した件)に迫る非常に重要な内容であるのに、実際に『戯曲 スタァライト』を演じるシーンが少ない。話の構成から見るに、『戯曲 スタァライト』を実際に演じる話で1話使い切ってもよいと筆者は考える。それは前項で述べた、舞台らしさの不足とも関係している。オーディションにおける舞台らしさが少なかったとしても、話の根幹となる『戯曲 スタァライト』の描写さえ多ければ、舞台らしさを保つことができたと思う。しかし、TVアニメ版の初回視聴時は、そもそも『戯曲 スタァライト』がどういった舞台か?と問われると、「行こう、あの星を摘みに!」というセリフ以外に思い浮かぶものがない。最終的にひかりの謎に迫る際に、『戯曲 スタァライト』のストーリーラインに触れるわけだが、その時点で『戯曲 スタァライト』がどういったストーリーであるかがあまり視聴者に共有されていないため、後付けのような印象も与えてしまう。

4.TVアニメ版におけるオーディションの意味とは何なのか

 さらに、オーディションという存在の、TVアニメ版の中での立ち位置がはっきりと決まっていなかったと筆者は考えている。作中では“キラめきを奪い合う”という設定であり、その通りに奪い合っていた。実際、TVアニメ版の第1話や大場なな、ひかりは、舞台におけるキラめきの奪い合いを行っていたし、その設定がキャラの根幹に繋がっていた。二人には、このレヴューで戦う意味が十分にあった。他方で、その他のキャラクターの戦闘は、基本的にキャラクター同士の喧嘩の延長線上であり、極端に言ってしまえば、キラめきや舞台に関係がない。ゆえに、オーディションに参加する理由についての説明も薄い。第1話において、キリンにより“トップスタァへの道が開かれる”という説明はあるものの、それはあまりにも抽象的すぎて、オーディションに参加する必然的な理由にはならない。

 そこに何かしらのリアル世界の舞台との連動性があれば、オーディションに参加する理由にもなるし、オーディションのデメリットを隠せる構造にもなる。例えば、オーディションに勝つことで、実際のリアル世界でも大役に抜擢されるようになる、舞台でよりキラめくようになる、といった設定であればオーディションへの参加もうなずける。

 加えて、各々のレヴューに関しても、ある1つの役を奪い合う者同士の戦いがメインであったり、それこそ天堂真矢と西條クロディーヌのような、舞台で研鑽し合う者同士の争いが主軸であったりすれば、舞台のキラめきを奪い合うという設定に合点がいっていた。

 それを踏まえて、オーディションで努力することがリアルの世界での舞台の成長にもつながる、といった設定があれば、舞台に想いのある華恋がオーディションで努力をすることに特に大きな疑問は抱かない。しかし、実際のTVアニメ版では現実世界で何かの役を勝ち取ろうと努力する描写がないため、オーディションにおいて必死にトップスタァを目指す意味がやや弱かったと考える。

第2節・劇場版はいかにTVアニメ版を破壊し、再生産したのか

 さて、ここまでTVアニメ版に対する批判と欠点を述べてきたが、それは劇場版で全て破壊され、再生産されたと筆者は考える。

1.オーディションの破壊と再生産

 まず、劇場版において最初のレヴューは「皆殺しのレヴュー」であった。その“皆殺し”の意味は、素直に考えれば、主要キャラクター全員(華恋とひかりを除く)を皆殺しするということであろう。だが、筆者はそこにTVアニメ版のオーディションの破壊という意図もあると考える。

 皆殺しのレヴューにおいて、TVアニメ版のオーディションの破壊――言い換えれば“否定”――として、まずキリンによる別の言葉の提示(wi(l)d-screen baroque)があった。その時点である。筆者はこの演出こそがオーディションの破壊を意味していると考える。ただ単にオーディションと別の存在が出てきたというだけではない。もしそうであるなら、わざわざここでオーディションと同じようなことをした上で、それを一瞬で終わらせてしまう、といったことをする意味がない。そこに、オーディションという存在はここで一度終わり、wi(l)d-screen baroqueという新たな存在が再生産されたという意味付けをしたと考えている。

 wi(l)d-screen baroque は、TVアニメ版のオーディションから「勝ち上がったら奪う/奪われる」といった設定を取り除き、ただただ「いろんな人の想いがぶつかり合う様子を抽象化したバトル」のみに目的が絞られ、わかりやすく、より体感的に理解しやすくなった。

 だから別にぶつかり合っても、勝ち上がりもなにもないし、奪われる/奪うを気にせずに、純粋な舞台少女同士のぶつかり合いに集中した表現に専念することができた。wi(l)d-screen baroque が生まれたことで、よりレヴュースタァライトの表現の質は上がったと言えるだろう。

2.舞台アニメとしての再生産

 この皆殺しのレヴューは、まずはオーディションを破壊し、再生産した。その中で、舞台少女は舞台上で死んだ。舞台装置である照明や音響機材を強調した上で、血のりがかかって死んだ。それが、“舞台”という定義の上で死んだということを指していると思われる。

 まずそういった点で、TVアニメ版よりも“舞台”を意識させる作品に変化していた。TVアニメ版でも、確かに舞台を意識させるよう、舞台の上で戦ったり、舞台で使用するハリボテが立っていたりしたが、そういった表面的な“舞台らしさ”ではなく、劇場版は舞台らしさの根幹をまねていたように思える。例えば、「怨みのレヴュー」では、香子とクロディーヌがBGMもなく静かに、少し薄暗い部屋で話しているところに、突如ビカビカに光ったデコトラが画面いっぱいに突っ込んできて、これでもかというほど、場面転換をはっきりと行っている。第1節2項でも触れたように、実際の舞台でも、音楽、照明、演出、その全てではっきりと今の状況を主張する。その抑揚の大きさに関しては、明らかにTVアニメ版よりもしっかりしたものになったと考える。

3.TV アニメ版を破壊・再生産して生まれたwi(l)d-screen baroque

 wi(l)d-screen baroqueが文学的用語であるワイドスクリーンバロックとどのように関連しているかについては、ここではあまり考察しない。wi(l)d-screen baroque が「いろんな人の想いがぶつかり合う様子を抽象化したバトル」ということだけ理解をしていただければよい。

 wi(l)d-screen baroque こそが、TVアニメ版の破壊と再生産の集大成である。

 TVアニメ版において、最終話のひかりのシーンを除いては、ある一定の秩序があり、言葉による丁寧な説明が入っていることが多かった。オーディションに関してもスマートフォンのお知らせを起点として始まり、華恋のオーディション登場時の演出は固定、オーディションについても、ひかりが消えた謎についても、全て言葉を以て――秩序を保って――説明がなされていた。

 他方で、劇場版におけるレヴュー、wi(l)d-screen baroqueにおいては、ほとんど秩序はないに等しかった。何をもって勝ちとするのか、そもそも何のための争いであるのか、キラめきの奪い合いなのか、喧嘩の延長線上なのか、そういった説明はほとんど存在しなかった。レヴューごとに異なる世界観が存在し、ルールもバラバラであった。もちろん、上掛けを落とすことでレヴューは幕を下ろすという最低限のルールはあったが、それに関しても「競演のレヴュー」や「魂のレヴュー」にてひっくり返されてしまった。

 先にTVアニメ版では戦闘シーンに抑揚がなかったと表現をしたが、劇場版においてはその抑揚をしっかり意識している。特に情報量が多い劇場版のレヴューにおいては、抑揚がなければ以前に出てきた情報に飲まれてしまう。TVアニメ版は秩序に則りすぎていて、言葉による説明が少し多かった。そうすると、情報量を詰め込むことができないし、テンポも悪くなる。視聴者は体感的に、というよりも論理的理解によりストーリーを理解する必要が出てくる。

 それゆえに、劇場版においてはほとんど説明なしで、セリフと演出で納得させる構成にしていた。

 これに関してはワイドスクリーンバロックの作品例としてよく名前の挙がる『天元突破グレンラガン』がわかりやすい。『天元突破グレンラガン』においては、その世界観の理屈を説明するシーンが一応は存在するが、基本的にそれを言葉通り理解する必要はない。実際、作品内のキャラクターもその世界の原理や、戦闘で勝つための原理はあまり事細かに理解していない。しかし、それは視聴者に伝わる。それは言葉ではなく、演出に詰め込んでいるからだ。そういった演出の前では、深い考察は無駄ではないが、必須とはならない。視聴者である我々に一切教養がなくても、場面の状況が直感的に伝わるようになっているからである。

 例えば、劇場版における『トマト』には、あらゆる含意があるだろう。しかし、その含意を全て理解する必要はない。理解すればさらなる深みへと至れるスパイスとはなるだろうが、作品を視聴するための必要条件ではない。

 筆者が感じたこととして、トマトには瑞々しさと、弾ける際のグロテスクさがあった。そういった直感的な感想こそが、ワイドスクリーンバロック作品において重要であり、教養は必要ないのである。

 つまり、冒頭に述べたように、本作品『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を視聴し感想を述べる上で、学術的考察は不要である。これは学術的考察の価値を下げる意味ではなく、学術的考察や舞台・歌劇に関する教養が一切ない人間でも楽しめるということ。そして、自身の感想や感情を整理するだけでも、十分な考察になり得る事を示している。

 まだ視聴していない人間に対しては、このようにハードルを下げた状態で劇場版を視聴してほしいと筆者は考えている。ここまでで述べたように、本作品はそういった視聴方法に堪えうる構成になっている。アニメの中の秩序を理解する必要はなく、我々はただその情報量の海に飲まれればよい。この考察を、新たな布教活動の一助にしていただければ幸いである。

著者コメント(2023/11/30)

いかがだったでしょうか? 難しく考えずに、TVアニメ合わなかった人でも見てほしい…!という想いで書いてみました。 拙い文章でしたが、丁寧に推敲してくださった運営の皆さまには感謝申し上げます。 是非ともTVアニメ版と比較して見てみてください!

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