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読書の思想ーー冊数目標と速読術のむこうがわ

年末に大量購入した本たちと、2017年に読み残した本たちの処遇について思案する。作年は組織やメディアの土台をつくる年になったので、ゴゴゴと気合いを入れて「私は私にとって重要な本を1冊をも見逃すまい…!」と一人称を私(ワタクシ)にするほど、意識的に棚を埋めていった。毎日を他動的にすごし、気になった本はすぐにその場で深く考えることなくAmazonのカートに何冊でもぶちこんで決済する。翌日にはポストに頼んだ本が届くので、毎日のように配達員と顔をあわせる感じで暮らした。

ぼくは訓練をしたわけではないが軽めの直感像記憶力があって(それは他人に指摘されてここ数年で自覚した)、簡単な速読術みたいなことができる。その道の人は瞬時に1P分記憶してびゃーっとページをめくり、文庫本1冊を30分ほどで完読するという。ぼくのはそんなんじゃなく、せいぜい3行ほどを一度で読む程度のもので、変化球でいうとションベンカーブといったところ。それでも普通に読むよりだいぶ早くなる。

その方法を使って「未読棚」に積まれたものを読み、そしてまたポストに届いた本を積むということをする。その時のリズムのようなものに合わせてビジネス書、実用書、人文書、エッセイ、とジャンルを横断して併読していると、同時に20冊ほど平行して読むということになる。このくらいの冊数が限度だが、登場人物が多数出てくる小説なんかはなかなか読めない。仕事机のわきに、ふせんに作品名と登場人物を箇条書きにして貼っておく、なども試した。

何が書きたいかというと、こんな読書の仕方はもうまっぴらごめんでやりたくないということだ。楽しくないからね。そして何より切実さが足りない。本の整理をしていたら、乱雑に読み散らかした彼らを1冊ずつ棚に戻す時、ふかく悔悟した。じんわりと涙があふれてしまった。

10代の頃はわかりもしない本をただひたすら乱読することが楽しかったし、物量から鍛えられる能力によって、ある本でつかみきれなかった感覚が別の本を通して理解できるようになる、といったうれしい体験も重ねてきた。でも今は10代ではない。

「今年は200冊目標です!」みたいなこともぼくは興味がなくて、むしろそれはまったく読書家とは縁遠い思想と方法論だな、と思ってしまうタイプだ。ぼくにとって読書というのは、合理化・効率化を最優先する社会に対して、知性や物語や詩によって反駁する行為なのだ。そうだった、確かにそういう行為だったはずだわね。忘れてしまっていたよ。

だんだん疲れてきたから適当にかくけれど、2018年はそーゆー「10代の自分が持っていた書物に対してのナゾの切実さ」「社会や世界へのナゾの怒り」「気兼ねなく議論できる仲間たちとの終わることのない対話」などを復権させたいな、と思っている。目標を立てるのが新年なのだとしたら、上記3つさえ達成できればもう本当に御の字だ。それくらいぼくはなんだか、10代の時の自分に顔向けできないような気持ちになった。

こういうルールはどうだろうか。

・同じジャンルの書籍は併読不可とする


これなら、小説、エッセイ、評論、詩…と各1冊読む感じになる。マックスでも併読は10冊以下に落とし込めるはずだ。小説ならそれを読み終わるまで読む。その登場人物たちの暮らす世界のリズムに、自分の身体をフィックスさせる。そういう読み方を取り戻したい。

最後までありがとうございます。また読んでね。