認知症になったおばあちゃんからの問い
あけましておめでとうございます。いよいよ2020年。
2020年一発目のnote書こうと意気込み、14時くらいまではSNSだったり仕事の仕込みをしたりと、頭が仕事のことでいっぱいだった。特にTODO的なことに目が行きがちな元日は、例年と変わらず、いや例年以上に目一杯な1日になってしまいそうだった。
14時までは。
でも、今日施設入所している祖母と家族のやりとりをみて、なんだか祖母から大事な問いを1つ投げかけられたような気がして、一気に仕事OFFモードに入ってしまい、今に至る。
なので、今日は仕事のことは一旦脇におき、祖母からの問いについて考える日にしたいと思った。
***
ただ今私は、実家がある石川県金沢市に帰省中だ。
私がお正月に実家に帰っていることはとても珍しく、特に弟が結婚し姪が生まれてからは、出来る限り弟家族と重ならない形で帰省をしていた。
それでも今年はいろんな諸事情が重なり、31日から帰省する形となった。
今回の帰省の目的の1つは、施設に入所中の祖母に会いにいくこと。
今年で85歳になる私の父方の祖母は、2年ほど前から認知症の進行により、老人ホームに入所している。
私に会う度に「ももちゃん大阪から来たんか?遠い所よく来たね。」と言ってくれる。ここまでは嬉しいのだが、これが25秒に1回くらいのペースで繰り返す。そんな感じなので、もちろんご飯を食べたかどうかだの、誰がいつ会いに来ただのは覚えているはずがない。
それでも祖母に会いたかったのは、父が面会に行くたび「ももちゃんは元気にしとる?」と気にかけてくれていると聞いたからだ。
認知症になると、いろんな記憶の数だけじゃなく、言葉の数も少なくなる。もちろん人にもよるが、祖母の場合は祖母が生活の中でよく使っていた言葉が最後まで残ったという感じだ。
最近はいつも大抵同じことしか言わないようだ。「ありがとね」「いつ家に帰れるん?」「たくさん食べとるよ」のラインナップの中に「ももちゃんは元気にしとる?」がランクインした。
祖母は昔から家族の心配ばかりしている人だった。
私の両親は小さい頃から共働きで、父方の両親と同居の形式だったこともあり、私と3歳離れた弟は祖母が面倒をみてくれていた。母が不在中の幼稚園のお迎え、おやつの準備、ご飯の支度まですべて祖母が行ってくれていた。
祖母はとても穏やかな人で、いつも何を言っても「そうなんか」といってにこにこ笑っている人だった。私も弟も、思春期もそれなりに激しく、口答えもする方だったので相当手がかかる子達だっただろうが、それでも祖母から怒鳴られた記憶はほとんどない。
祖母はいつも仏壇に向かって手を合わせていた。私達の写真を並べた仏前に座って、毎朝晩決まった時間にお経を唱えていた。どこまで信仰深かったかは謎だが、毎月はるばる富山にいる何かの宗教の偉い人の所に足を運び、家族みんなが無事で楽しく過ごせるよう、さらに追加でお祈りに行っていた。
主語はいつも自分である祖父と結婚し、いわゆる超亭主関白を旦那にもった祖母。祖母がなにかミスをすると祖父はいつも怒鳴り散らしていた。そんな状況下でも、祖母はほとんど弱音を吐かず、口答えをすることもなかった。
どんな時も、誰に対しても穏やかな人だった。家で洋裁の仕事をしていたので、近所の人が服を持ってくるのだが、ある時どこかの組に所属する男性がおばあちゃんを訪ねてきた。子どもの私でも大凡推測がつくツルツル坊主にテカテカシャツに強面サングラスという外見だったが、祖母はいつもとまったく変わらない様子で対応していた。祖母の対応の甲斐あって?その方は繰り返し注文してくれていた。
私は祖母が大好きだ。祖母の手をぎゅっと握るといつも温かい、どんな時もにこにこしている。祖母がどんなに火を止め忘れてボヤ騒ぎを起こすくらい認知症が進行していても、いつもにこにこしていて可愛い(にこにこしている場合じゃないのだけど)。
そんな祖母が2年前に本格的に認知症になり、夜間の徘徊や物取られ妄想など症状が一気に悪化したタイミングで、施設に入ることになった。いつも会う度に認知症の進行を感じている。身体面も少しずつ弱っているのが明らかで、今日は声がますますかすれていて、全身がほっそりしていた。
そんな祖母との面会は母、弟家族と一緒に行ってきた。
弟は、反抗期が人よりも激しくかつ長期化したタイプだった。特におばあちゃんに対しての当たりは年々キツくなっていた頃もあり、関係性も私とおばあちゃんほど順風満帆ではなかったように思う。おばあちゃんはいつも私達が喜ぶ料理を出そうとするけれど、弟は思春期の到来とともに「こんなばばくさい料理!」とか言い放っていたし、アルバイトを始めてからはおばあちゃんの料理を食べずに自分で買い込むようにもなっていた。
おばあちゃん大好きな私はその発言や態度が許せず、県外の大学から帰省する度に「おばあちゃんにそんなこと言うな」と怒りをぶつけると、弟は負けず「家におらんくせに綺麗事ばっかりいうなや!」と言い喧嘩になっていた。まぁそれでも祖母は弟を責めることはなかったし、弟の好きなものをつくろうと努力し続けてくれた。
そんな弟が、今日唐突におばあちゃんに向かって言ったのだ。
「ばあちゃんが作ってくれたオムライスが好きだったよ」「ありがとうね」
私は弟を二度見した。私の弟は決してそのような優しい言葉かけを家族にするような男ではないと見くびっていた。
そして私のとんでもない驚きに拍車をかけるように、弟のお嫁さんもこう言った
「〇〇(弟)はおばあちゃんのこと、よく家で話してます」
そして隣をみるとおばあちゃんがにこにこ笑っていた。話の内容が理解できたのか、そうでないのかは定かではないが、とにかくにこにこしていた。
そして、母もなんだかすごく嬉しそう。
母は、ずっと共働きを続けながらも、子育てに家事に仕事にと一生懸命すぎるあまり、子どもからみても辛くないその人生?と思うほど大変そうにみえる人だった。そんな母がおばあちゃんに、こんなことを言っていた。
「おばあちゃんが桃子と〇〇(弟)を育ててくれたんやよ」「おばあちゃんがいなかったら私は働けなかったよ」「ほんとうにありがとうね」
このくらいの文の長さになると、祖母はもう完全に聴覚的に認識しきれないはず‥と思いながらも、祖母がやっぱりにこにこしているので、つっこまずにその様子を眺めてしまった。
弟も母もそして私も、祖母の命がもしかしたらもう長くないかもしれない、そう思っていたのかもしれない。これまで何度も命が危ない場面を切り抜けて今に至った祖母だけど、もう本当に‥と思わざるを得ないほど、痩せて弱っていた。
弟も母も、祖母に対しての感謝の言葉なら、もっと祖母の記憶がはっきりしているうちに伝えたらよかったのかもしれない。
弟が反抗していた時期も、母が落ち着いて祖母に対しての感謝の念を抱いた時期も、逆戻りはできない。そして、私ももっと感謝を伝えたらよかったと今更ながら後悔してしまう。でももう覚えておけないと思っても、こちらは祖母に感謝してもしきれないし、その気持ちを伝えたいのだ。
そして、今回のやり取りを通して、祖母からひとつ問いを投げられた気がした。
ももちゃんは、どんな死に方がしたい?
もちろん、祖母がそんなことを私に言ったわけではない。でも、「命の炎を弱くなる時、人としての本質がでる」この言葉が祖母との一連のやり取りの中で頭に浮かび、そして問いとなった。
これまでも医療現場で様々な人の人生の終わりに向き合ってきたのだけど、本当に弱っていく過程「しにざま」には「いきざま」が現れる。
祖母はどんな時もにこにこしていたし、やっぱり今でもにこにこしている。誰に対しての暴力性もないし、誰に対しても過度に期待したりもしない。でも、ちゃんと愛をもって目の前の人に向き合っている。
祖母が人生をかけて守って愛してくれた私たち家族は、どんなに祖母が何もかもわからなくなっても、その恩を忘れることは決してなく、祖母を愛している。それが祖母の生き様だ。
人を愛で包み込むなんて簡単なことではないのだけど、それでもどんな風にいきていたか。祖母がもしかすると人生のフィナーレを迎えるかもしれないにあたり考えることができた。
私はどんな死に方をしたいのか。それにむかってどんな生き様でありたいのか。
今ある仕事はもちろん大切なのだけど、目の前の仕事をこなす、になっていないだろうか?私が目指す生き様に繋がる働き方だろうか?
いつも質問はシンプルだ。
死ぬときにどんな死に方をしたいのか。その問いをいつも持っていれば、今日14時まで迷っていた仕事の道筋もみえてくるはずさ。
でもまだまだ一緒にいたいよ、おばあちゃん。2020年も一緒に過ごそうね。