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能力主義批判について思ったこと

meritocracyという用語も最近知りましたが、日本語では能力主義という訳が与えられています。この用語自体は1958年に社会学者のマイケル・ヤングが提唱したものです。

今、能力主義批判の急先鋒になっているのはマイケル・サンデル教授でしょう。↑の本はまだ読んでいませんが、GW中に↓は読みました。

こちらの本も、サンデル教授ほどストレートな能力主義批判ではないですが、読んでみるとその主張は行き過ぎた能力主義が社会に歪みを産んでいる、なんとかしよう、という主張でした。

日本はアメリカよりマシだが

上記の本はアメリカ社会の話です。視点自体はそう新しいものではなく、もう十年以上、アメリカ社会の格差は問題にされているような気がします。

日本はアメリカよりだいぶマシですが、それでも状況が似通っているのは感じます。

たとえば日本でもアメリカでも、かつては大企業で働く清掃員は、末端の仕事であっても、「俺はxxで働いているんだ」という事実が自尊心になったし、労働組合で雇用が守られていました。

今は派遣会社が間に入って、同じビルで働いている人であっても、同じ会社で働いているとは限りません。

(「絶望死のアメリカ」では「もはや週末のバーベキューには呼ばれなくなった」と表現されていました)

この人材紹介業を介した身分制度は、日本でもよく見る光景です。

自分も分断の中にいた

能力主義による分断は、ふりかえってみると、僕自身の人生にも無意識に強い影響があったな、とふと気づきました。

能力主義、というキーワードを得ると、身の回りの色んなものが説明できます。

高卒で入社できるホワイトカラーの会社、というのは僕の子供の頃より確実に減った気がします。

日本は少子化で子供の数がガンガン減っているのに、私立大学の数は増えています。おかしいじゃないか、とずっと思っていましたが、しかし能力主義社会を考えると、けしておかしなことではないことがわかりました。

学生とその親は、ホワイトカラーの会社員という身分を得るために学費を払う、大学側は学費による収益で潤う、労働市場には高い教育を受けた質の高い人材が供給される。三方よしですね。

能力主義社会が人を傷つけている

「能力」というのが一つのキーワードになっています。

就活するときも、「大企業はもう安定ではないから、成長が速いベンチャーに行って成長して、本当の意味の安定を手にしよう」みたいな謳い文句はよく聞きました。実際「ウチは福利厚生が手厚いよ!」と宣伝されるよりも魅力的でした。

本田圭佑もTwitterか何かで、「本当の安心は自分の確固たる能力からしか生まれない」という旨の発言をしていた気がします。

才能があって、努力も惜しまない人間が、素晴らしい能力を発揮して、人々から賞賛を浴びる、というのはスポーツの世界では特にわかりやすいですし、色んな
業界で見ます。

ただピラミッドの頂点に行くためには競争があって、その競争で多くの人が傷つき、倒れていきます。

IT企業の台頭の後で、Winner takes allの傾向は他の業界にも波及していったように思います。

チャンピオンになれなくても、そこそこでもちゃんと努力すれば報われる、というのが昔はあったように思いますが、その余裕がなくなったような気がします。

能力主義社会を前提にして考えると、世の中のふとした空気感も、そういう世情を反映しているように感じられてきました。

たとえば、色んなところで、「上から目線」とか「偉そう」とかいう評価を目にすることが増えた気がします。特にネットではそうでしょうか。

これも今思うと、能力社会で無意識に傷つけられている人間は、他人の優位性を素直に受け入れることができず、反発を覚える、という説明ができます。

(ちなみに僕はnoteに移ってから記事を全部ですます調に統一しましたが、これもなるべく印象をよくするための工夫の一つです)

本当に成功している人は謙虚で、自慢しない?

「本当に成功している人は謙虚で、自慢しない」みたいな言説もよく聞きますが、これも能力主義の観点から説明できます。
(※もちろん謙虚ではなく自慢する本当に成功している人も探せば存在すると思います)

圧倒的な能力を持って、ピラミッドのトップに行って、その地位が脅かされることはもうないだろうという人(「本当に成功している人」)は、その安心感から謙虚になることができるし、自慢もしません。

ただトップまではいけないレベルの人間は、常に自分の地位が不安だし、自分の力を誇示したがります。だから自慢するし、目の前の素人たちに「俺はお前らとは違うんだ」というメッセージを送ります。

これはとても不幸な構図ですが、この構図から逃れるためにはピラミッドのトップに行って、自分の能力を証明するしかありません。

能力主義社会に傷つけられた自分を発見した

客観的な記述を続けてきましたが、思い返してみると、僕も無意識に能力主義社会に傷つけられていました。

というか、今も傷つき、苦しめられているのかもしれません。

無能扱いされないように、懸命に色んな場面で結果を出すしかありませんでした。

振り返ると、結果出せた場面もあれば、出せなかった場面もあります。出せなかった場面の方が多い気がしますね。

自分でも自分のことが有能か無能かなんてわかりません。というか本当の意味で有能な人間も無能な人間もいないでしょう。人間なら何かしらできます。

でもそう頭の芯ではわかっていても、大学受験に落ちるとか、就活で不採用になりまくるとか、そういう状況になれば、「自分は無能なんじゃないか?」という不安から逃れられなくなります。

幸い僕は今となってはなんとかなってますが、傷つけられた時期はありました。そのことを「能力主義社会に傷つけられた」と認識してはいませんでしたが、今思うとそういうことだったんだと思います。

競争と個人

競争は悪ではない、と今の僕は考えています。

かつて競争を否定した共産主義社会は崩壊しました。現代日本でも、競争を拒否し続けるような生き方もできますが、ちょっとキツいことになるでしょう。

競争のポジティブな側面は、プレイヤーのレベルが向上するということです。誰か一人で孤独にやって生み出したものよりも、たくさんの人間が切磋琢磨してその中で一番いいものを選ぶ方が、クオリティは断然上がります。そこに参加している人間のスキルも向上していくでしょう。

ネガティブな側面として、競争は少数の勝者と多数の敗者を生む、というところです。

競争原理主義的になると、なんか人間としておかしくなってしまうな、というのも感じます。勝って人を見下すような人間になったり、負けて絶望にかられたり、いずれにせよまともな精神状態ではいられません。

資本主義の仕組み全般がそうですが、基本的には万能ツールには程遠いものの、他のあらゆる人工的な制度よりも上手くいったので採用されているだけで、絶対正義でもなんでもないです。

アメリカで高まっている競争主義批判は、そもそもその競争自体が親の金に依拠した極めて不公平なものになっている、という指摘で、競争自体はいいけれど、ゲームシステムが歪められている、というのが問題なんでしょう。

マクロな制度設計の問題については本記事の対象外なので、言及はこんなもんにしときます。

今まさに競争的な制度に晒されている我々労働者にできることは、自分が残酷な制度の下にいる状況を認識して、その中で潰れない程度に競争しつつ、人間性を保つようにするだけでしょう。

(了)

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