すずさんの「手」について――私たちは魔法の力を忘れないでいられるか

 (注)この文章は、拙著『戦争と虚構』(作品社)の中の『この世界の片隅に』論の一部分です。『この世界の片隅に』の地上波初放送(NHK、2019年8月3日)を記念して、そしてこの素晴らしいアニメーション作品への感謝の思いを込めて公開します。もともとの文章の4分の1ほどの分量であり、批評文として完結しているわけではありませんが(たとえば映画の後半はむしろ魔法の「手」を喪った後のすずさんを描いていますし、私の批評の主題もそこにあります)、皆さまが映画を楽しむための材料の一つにしていただけるなら、幸いです。 #この世界の片隅に

 絵を描くのが好きな少女・浦野すずは、広島市内の江波で、兄の要一(おっかないので鬼イチャンと呼ばれる)と妹のすみと共に、海苔作りなどの家業を手伝いながら、慎ましい日々を過ごしている。
 「うちゃあぼーっとしとるけえ、じゃけ、あの日のこともきっと垣間見た夢じゃったんに違いない」。『この世界の片隅に』は、すずが「ぼーっとしている」自分を確認するナレーションからはじまる。これは重要な点である。すずは、つねに、どこか現実から解離し、目覚めながらもぼうっと夢を見ているようなところがある。あまり主体性がなく、周囲の状況に受動的で、流され翻弄されるままになっている。そうした印象である。いっけん、ある種の保守的なタイプの「かわいいお嫁さん」にも見えるかもしれない。
 しかし、すずが終始ぼんやりしているのは、人間たちが営む「この世界」に対する根本的な無力さや受動性のためではないか。それはおそらく、本当は私たちの誰もが強いられている無力さであり、受動的な弱さでもあるはずだ。
 のみならず、これは誤解を招くかもしれないが、アニメ映画版のすずは、声優を担当したのん(能年玲奈)の独特のゆっくりとした声質とも相まって、ほとんど軽い知的ハンディか、何らかの発達上の障害があるかのように感じられる。そのことによって、戦時下の「片隅」のリアルがよりはっきりと印象付けられる。実際にネット上では、すずは軽度の発達障害ではないか、という当事者からの共感の書き込みがいくつも見られた。そのことの意味は小さくないと思う。
 すずは幼少期から肝心な点を見落としたり、逆に周囲の人間が気付かない点に気付いたりする。「片隅」とは、たんにちっぽけな庶民の眼差しという意味「だけ」ではない。そこでは「片隅」の意味が多元化し、重層化していく。アニメ版のすず=のんの「声」によって、はじめて、原作マンガの意味が体感できたという人も多いのではないか。
   *
 すずには幼い頃から、絵を描くという特技があった。いや、彼女にとってそれは、ただの特技や趣味という域を超えている。絵を描くことは、すずにとって、生きることそのもの、いわば生存原理としての特別な強度を獲得しており、それはほとんど「生の技法」(立岩真也)であるように見える。
 こうのによる原作のマンガ版でも、すずの「絵を描く」力は、様々な場面で発揮されている。すずは、ちびた鉛筆や絵筆、羽ペン等を使って、生活の節々で、ひたすらに何かを描いている女性である。
 マンガ版の『この世界の片隅に』(上中下の三巻、単行本は二〇〇八年~二〇〇九年)は、単発で描かれた「冬の記憶」「大潮の頃」「波のうさぎ」という三つの短篇と、本編の連載(第1回~第45回)から構成されている。
 重要なのは、連載の過程を通して、マンガ表現の様々な実験が試みられていることだ。たとえば奇妙な夫婦の暮らしを毎回三頁/四頁で連載形式で描いた『長い道』(単行本二〇〇五年、連載二〇〇一年~二〇〇四年)でもまた、連載の途中からリアリズム形式をかなり逸脱し、様々な表現上の実験が(好き勝手に?荒唐無稽に?)行われていたが、『この世界の片隅に』では、それがたんなる方法上の遊びや技巧というよりも、戦時下を生きた庶民たちの生活を描くための苦闘として、あれもこれも召喚されている、という感じだろうか。
 たとえば第2話の「大潮の頃」は筆を使って描かれたり、第5回では、着物を裁ってもんぺをつくる過程が『暮らしの手帖』のように図解されたりしている。すずが右手を失ったあとの世界は、部屋や街が「まるで左手で描いたように」ぐにゃぐにゃに歪んで描かれるが(第35回以降)、こうのはこれを実際に左手を使って描いたという。第39回になると突然「右手」が現れ、あたかも作中のキャラクター=虚構内存在たちに対するメタ的な位置に存在するかに見えるし、不思議な難解さを帯びた最終回「しあはせの手紙」では、おそらくこの右手からの手紙が「あなた」(戦災孤児の少女を指しているようだ)へ宛てて送られてくることにもなる。
 そうした原作の表現上の実験を踏まえながら、しかし、片渕によるアニメ映画版の『この世界の片隅に』は、すずのその絵を描くことのマジカルな力を、さらに決定的に重要なものと考えているかに見える。過酷で無慈悲で変更不可能な「この世界」のあり方をズラし、遊びや隙間、ユーモアを生み出していくものとして。
 では、原作マンガとアニメ映画の「手」の、微妙な違いとは何か。
 たとえば原作マンガ/アニメ映画の改変として、一〇年八月一五日、草津のおばあちゃんの家に泊まりに行った時のエピソードがある。すずは、天井を見上げながら、天井の木目にそって、手を掲げて宙に絵を描くようなしぐさをする。「ほいでも子どもでおるんも悪うはない/色んなもんが見えて来る気がする」。すると天上板の一枚が開いて、そこから座敷童子が覗きこんでいる。
 原作マンガの「大潮の頃」(上巻所収)では、座敷童子はすずの描く力によって現れるわけではなく、すずが昼寝中に一人眠らずに天井を見ていると、向こうから勝手に天上板を外して降りてくるという流れになっている。
 これに対し、片渕のアニメ版は、あたかも幼年期のすずが、そのマジカルなしぐさによって天井から座敷童子を召喚したかのように見える演出がなされている。この演出の違いは重要な意味があるように思える。食べ残しの白いところばかりのスイカを食べる座敷童子に、すずは声をかけて、新しいスイカを持ってきてあげようとする。ちなみに座敷童子の実在に気づいているのは、おばあちゃんだけであり、これは『マイマイ新子』の新子と祖父の紐帯をどこか思わせる。この座敷童子の存在が『この世界の片隅に』という作品に複雑なメタフィクション性を与えることになる。
 そしてアニメ映画版の物語の半ばごろ、すずは闇市で高額の砂糖を買ったあと、遊郭に迷い込んでしまう。疲れて座り込んで、地面にすいかやキャラメルの絵を描いているところで、すずは遊郭で働くリンという女性と遭遇する。道を教えてもらったすずは、リンに乞われて、すいか、はっか糖、わらびもち等の絵を描く(「あいすくりーむ」は見たことがなかった)。すずは気づいていないのだが、観客の眼差しからみると、どうやらこのリンという女性は、昭和一〇年の夏に草津のおばあちゃんの家ですずが出会った座敷童子が大人になったものであるらしい、ということが示唆される。
 実際に、映画全体が終ったエンドロールのさらにあと、クラウドファウンディングを行ってくれた人たちへのお礼を述べるところでは、画面の下に、おそらく口紅を使って描いたような太い線の絵によって、座敷童子のこれまでの一生の物語が語られ、おばあちゃんの家で遭遇する前の暮らしはどうだったか、そしてすずと遭遇したあとにどうなったか、座敷童子は成長してリンの姿となり、遊郭に入り、呉で結婚したすずと再会したらしい、ということがわかる。
 原作マンガではリンは実在の女性だった。しかしアニメ版においては、座敷童子=リンの存在そのものが、すずのマジカルな「手」の力によってこの世界に生まれ、アニメートされた(生き生きと息を吹き込まれた)かのような印象が与えられるのである。
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 すずにとっての絵を描くという行為は、そのまま、アニメーションのメタ構造でもあるかのようだ。実際にすずの魔法の「右手」は、アニメーターの手であるかのような演出がたびたびなされている。それだけではなく、『この世界の片隅に』の物語全体には、かなり複雑で、複数的な原理に基づく様々なメタフィクショナルな仕掛けが施されているのである。
 私が読み取れた限りのことを、箇条書きにしてみよう。
 (1)冒頭近くの人さらいのばけもんをめぐるエピソード
 (2)座敷童子とリンをめぐるエピソード
 (3)少年時代の水原の前で描いた、波とウサギの絵(現実の水原が絵画の向こうへと歩いていく)
 (4)鬼イチャンの従軍記と冒険記
 (5)二〇年三月一九日の初の爆撃のシーン。空がキャンバスのようになり、「手」が絵の具をそこに塗りたくり、爆発の美しさがあたかもゴッホの絵画のように描かれる
 (6)不発弾の爆発によって晴美と右手を失った後の、記憶の混乱やフラッシュバックをめぐる描写(「シネカリグラフのような」、あるいはいわゆる初期アニメーションのような実験的な映像で表現される)
 (7)世界全体が左手で描いた絵のように歪んでいく描写
 (8)失われたすずの「右手」がメタ的な外部から現れ、すずを慰めるという描写(さらにクラウドファウンディングの協力者へのお礼を述べた最後、画面上にすずの喪われた右手があらわれ、観客に向けてバイバイと手をふる)
 (9)戦艦青葉が空中に浮かび上がるシーン――晴美についての記憶と水原についての記憶が融合し、子どもの絵と現実と記憶が入り乱れるような、幻想的なシーン
 他にも、私が見落としたものもあるかもしれないが、いずれにせよ、このようないくつものメタ構造性が『この世界の片隅に』においては複雑な織物のように絡み合いながら織り込まれている。繰り返し映画を観直し、熟考しなければ、それらの構造を見極めることも難しいだろう。
 これらのメタ構造的な描写やエピソードは、すずの「絵を描く能力」(あるいは物語を作り出す能力)と直接関係している場合が多い。しかしそれは、すずの「手」の力が万能である、という意味ではない。物語の中では、すずの意志や意識を超えて、メタフィクショナルな表現がなされているケースがいくつかある。たとえば物語の終盤にあらわれる「右手」という幽霊的な存在について、すずが気付いているかどうかは微妙である。また座敷童子が成長してリンになるというエピソードは、明らかにすずの意識の外部にあるものだった(先ほど述べたように、座敷童子/リンについては、原作マンガとはかなり異なる演出がなされている)。
 具体的に見てみよう。
 すずのマジカルな絵を描く力は、現実(実在するもの)と絵画(描かれたもの)の境界線をしばしば揺るがすことになる。たとえば(3)である。まだ少年少女の頃、すずが海のそばで水原と遭遇し、学校に絵を提出せず、帰宅しないでいる水原から鉛筆(海軍に入ったが船の転覆事故で正月に死んだ水原の兄の遺品)を受取り、水原の代わりに「波のうさぎ」の絵を描く、というシーンがある。
 白波がうさぎが飛び跳ねているように見える、と呟いた水原の言葉に触発され、すずはそれを海の絵に重ねていく。目の前の海の景色が、幻想的なうさぎが飛び跳ねる可愛らしい絵画と重なる。海の事故で兄を失い、その後両親は海で取れた海苔で酒ばかり飲むようになった、そのために海そのものを嫌って鬱屈していた水原は、「こんな絵じゃ海を嫌いになれんじゃろうが」と言って、すずが描いた絵画の中へと歩み去っていく――。風景と絵画、現実と空想が幻想的に溶け合うシーンである。
 さらにすずの描く力の魔法性は、現実と風景の境界線を揺るがすのみならず、時として、現実と虚構を交錯させ、まさしくメタフィクショナルな効果を物語内にもたらしていく。
 たとえば(4)。すずは、幼い頃から、すぐに怒ったり殴ったりする兄のことを「鬼イチャン」と呼び、鉛筆で鬼イチャンについての物語を落書きっぽく描いていた。作中では「鬼イチャン冒険記」や「鬼イチャン従軍記」が出てくる。
 あれだけ怖かった鬼いちゃんも、一兵卒として戦争で亡くなり、その骨すら見つからず、石ころ一つになって故郷へ戻ってくる(妹のすみはそれを「のうみそ?」と勘違いする)。家族はその事実を受け入れられない。実際に鬼いちゃんは戦地の何処かで生き延びているのかもしれない。しかしすずたちの物語は、石ころになってしまった鬼いちゃんの「ありえたかもしれない生」を生き生きと物語ることによって、「この世界」という「変更不可能な唯一の現実」に、小さな隙間を作り出し、別の解釈を与えていくだろう。
 すずが描く鉛筆マンガ「鬼イチャン冒険記」は、次のようなものである。鬼いちゃんは南国で逞しく生き延びて、髪や髭も伸び、背中に籠を背負ったバケモノのような姿になる……しかしこのバケモノは、なぜか、大人になって結婚し、広島の町に佇んでいるすずと周作のそばを通り過ぎるのだ。それはあたかも、鉛筆マンガ「鬼イチャン冒険記」の中から現実の側へと飛び出てきた鬼いちゃんが、時空を捻じ曲げて、幼年期のすずが幻のように垣間見た橋の上の「人さらい」の怪物になった、というふうに解読することもできるものである。
 これは『この世界の片隅に』を観る私たちに奇妙なねじれの感覚をもたらす。こうしたメタフィクショナルな仕掛けが、作品中の様々な場所で複雑な織物のように生じているのだ。
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 ここではあえて、こうの史代の作家性と片渕須直の作家性を対比して語ってみることにしたい。原作マンガ版とアニメ映画版のモチーフの違い(特異性)を浮き彫りにしてみたい。
 それはもちろん、どちらがより優れているか、ということではない。原作の豊かさを映画版が切り捨てたとか、原作よりも映画版の方が面白いとか、そういう話をしたいのでもない。ただ、作家性の違いを強調することで、見えてくる光景を見つめてみたいのである。
 その上であえて断定的に記せば、こうの史代が記録者であるとしたら、片渕須直は空想家である、と私は思う。
 前者のすずの「手」が作者こうのの「手」と重なっていくとしたら、後者のすずは、あくまでも映画内の様々なキャラクターの一人であるに過ぎず、監督としての片渕とすずの間にはつねに距離がある。
 マンガよりも映画の方が集団制作的な面がずっと強い、というだけではない。そこにはこうのと片渕の作家性の違いが露呈しているのであり、それがすずという虚構内存在=キャラクターの存在感(そして彼女たちの生存原理)をめぐる微妙な差異を生み出しているように思える。
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 こうののマンガを特徴付けるのは、細部に渡る細かくもあたかかな描写、絵柄のある種の古さ、トーンやデジタルを使わない愚直な執念を感じさせる描き込み、コマ内や欄外での文字情報の多さ、等である。そしてそれらを貫くものとして、こうのには、執拗なまでの記録への意志がある。その時代その場所にあったはずの人々の「生活」。それをマンガによって「記録」することへの強靭な意志があり、ある種の信仰者のような信念がこうのにはある。
 たとえば日本近代メディア史を専門とする田中里尚は、「《記録することの力》 雑誌/生活/考現学」(「ユリイカ」二〇一六年一一月号、特集*こうの史代)という論文の中で次のように論じている。こうのは『この世界の片隅に』で戦中の生活を描くにあたって、当時の婦人雑誌を丹念に、徹底的に読み込んだ。それらの資料の資料性に対峙することが一つの決定的な「方法」となり、彼女のマンガの形式や描き方にも影響を与え、重層的なリアリティを形作っていったのだ、と。
 当時の婦人雑誌は、日々の生活のリズムに合わせて、読者の女性たちが自らの生活を変えたり整えたりするために刊行されていたのであり、手書きの文字や記事の配列、目線なども、その必要性に従って入念に構成されていた。『婦人倶楽部』『生活の手帳』等から学び取った当時を生きる女性たちの生活のリアリティを、日々の生活や労働としてマンガを描き続けることを通して、自らの作品に反映させ、自らの肉体にコツコツと刻み込んでいくこと。時代を超えたその生活のリズムの重ね合わせが(そこに不可避に生じる雑音や不況椀を含めて)『この世界の片隅に』という作品に固有の、特異的なリズムを響き渡らせているのだ。
 だがこれは『この世界』に限らず、こうの作品全般の特性をも表すものだろう。こうのは『街角花だより』『こっこさん』等の初期作品の頃から、丁寧な取材と日常感覚を大事にし、生活に根差したショートストーリーを積み重ねてきた。しかしそれは普通の意味での日常生活をリアリスティックに描いてきた、という意味ではない。現実とフィクションが複雑に入り乱れるのがむしろ生活者の「日常」そのものである、というような感じなのだ。
 こうのが記録する「生活」のリアリティとは、つまり、あらゆる観念や思想とは無縁な、善悪とは無関係の、庶民のリアリズム的な日常生活というのとは少し違う。こうの作品が描く女性たちは、のほほんとして保守的に見えながらも、奇妙な不気味さをつねに身にまとっている。そもそも、彼女が描く人物たちはいかにも「漫画的」なデフォルメされたキャラクターであり、客観的な意味でのリアリズムの手法によっては描かれていない(しばしば、こうののマンガは、じつは萌えキャラや日常系のショートストーリーとしての面もあると言われる――つまり、細部の執拗なリアリズムとマンガ的な萌えキャラクターの分裂的な共存が彼女の作風としてある)。
 むしろ、一つの時代のその場所にある生活とは、現実と虚構が絶妙かつ重層的に混在したものなのであり、そのような意味での虚実皮膜の「生活」の強さ、したたかさを克明に、丁寧に、狂気のような情熱をもって「記録」していく。そこに、こうの史代という作者の信念がある。
 ゆえに、こうの史代のマンガは、作中の主人公の女性たちの中に、作者であるこうの自身の生命がつねに流出し宿っている、という印象がある。どの作品の女性もこうの本人にしか見えない、と周りからよく言われる、とこうのは語っている。
 それは作者の実生活を私小説的に投影している、というのとは違う。作品全体の隅々にまで作者のしなやか且つしたたかな「手」の実在が沁み渡り、作者自身の強靭な信念が強烈な命として宿されている、ということだろう。歴史も場所も離れた場所で生きていた誰かの生を記録することが、記録への意志において、そのまま、こうの自身の苛烈な生の記録にもなっていく。個性の表出の極まりがかえって無私的な表現になっていく、という逆説がそこにはある。
 これに対し、片渕須直の場合はどうだろうか。
   *
 空想の力によって現実を重層的に拡張していくというマジカルな力……。それは、こうのの原作から取られたモチーフでもあるが、明らかに、片渕の作家性や資質に深く関わるものである。
 先述したように、こうのの原作マンガにおけるすずの「手」は、作者であるこうのの「手」と重なっているように見えるのに対し、片渕のアニメ映画におけるすずは、あくまでも映画内部のキャラクターの一人であるに過ぎず、片渕とすずの間にはつねに距離があるように見える。こうののマンガでは、メタフィクション的な仕掛けは「作者」の「手」によって描かれたものである、という印象が全体として強くあるのに対し、アニメ版では、「すず=作者」という強いメタフィクション性が成り立たず、すずもまた「片隅」的なキャラクターでしかないことが徹底されている。
 実際に、片渕監督の作品に触れると、つねに、キャラクターたちの小ささと弱さ(受動性)が重要なポイントになっているように感じる。
 たとえば構想八年、製作三年をかけたという片渕の長編第一作『アリーテ姫』――。
 その冒頭、城から抜け出してきたアリーテ姫は、城下町を彷徨いながら、職人の子どもたちが未熟ながらも仕事に勤しんでいるのを見て、「本物の魔法とは違うけれど、人の手には確かに魔法のようなものが備わっている……だとしたら、この手にも?」と自分の両の手のひらをじっと見つめるだろう。
 アリーテ姫は、王家の贅沢と権威に囚われた「お姫様」でいるより、名もない職人として、「魔法のようなもの」をその小さな両手に宿すことを願っている。職人の小さな徒弟ですら、みんな、自分が何物かを知っている。それなのに、私はいつまでもまっさらのままだ。だからあの門を出て、お姫様なんかじゃない何者かになりたい、外の世界の挫折さえ今の私は味わいたいのだ、と。
 アリーテ姫は塔の上の(『カリオストロの城』のクラリスのように)部屋に閉じ込められながら、様々な科学技術も、目の前の机も、「人の手」が作り出したものなんだ、ということへの新鮮な驚きをいつでも感じている。科学や魔法が偉大なのではない。それらを作り出した「人間」の「手」に対して、限りない驚きを感ずるのだ。
 ならば、魔法とはむしろ、無名的な職人たちの「手」のことではないか。特別な才能でも便利な力でもない。日々の暮らしの中の、地道で懸命な営みこそが本当の意味でマジカルなのだ(『アリーテ姫』の構想は早くも『魔女の宅急便』の頃からはじまっていたそうであり、魔法というテーマ性を鑑みても、『アリーテ姫』は結局宮崎駿に監督を譲った『魔女の宅急便』に対する応答であり、果されなかった片渕版『魔女の宅急便』の再出発=リブートという面があるのかもしれない)。
 物語の中盤以降、アリーテは、魔法使いのボックスとその部下のカエル男・グロベルに誘拐され、荒野の果てに聳える城の地下牢に閉じ込められてしまう。魔法使いのボックスの正体はかつての「文明人」であるが、今やすっかり零落し、退屈と惰眠の中にいる。かつての文明人が甦り、地球に帰還し、自分を救ってくれる日をひたすら待ち続けるだけだ。
 結局アリーテにとっては、塔の上の部屋から荒野の地下牢へと、幽閉の場所が変わっただけである。すっかり生気を失ったアリーテが力を取り戻すきっかけを与えたのは、近くの村に住むアンプルという女性である。ある時、アンプルの何気ないアドバイスに従って、アリーテは、心の中に物語を作ってみる。
 何も出来ず、完全に囚われの状況でも、誰もが物語を心の中で紡ぐことができる。そこから『アリーテ姫』はある種のメタ物語になり、冒頭のナレーションの言葉をそっくりそのまま、アリーテが自らの声で呟く。「けれど、お姫様自身はと言うと……」。物語の中のアリーテは、窓の外の無数の庶民たちの人生に心を馳せる。空想と物語化こそが、塔の中に閉じ込められた彼女にとっては、他者が繋がる唯一の回路だったからだ。
 アリーテは、この世の人々に対し、限りない愛おしさと羨ましさを感じる。人の数だけ物語があって、誰もがその主人公なのだ。なのに私は……いえ、私だって……。必要なのは、周りの人間が押しつける「ドラゴンや魔女の物語」ではなく、ありふれた「一人ひとりの人生の物語」なのである。
 とはいえ『アリーテ姫』は、職人や庶民たちの魔法を宿した「手」に憧れながら、彼女自身はそうした「手」を宿すことがまだできない。しかしその代わりに、「声=物語」の力によって、、自らが強いられた過酷な現実をメタ的に重層化し、生きる力を取り戻す、という作品構造を持っている――それは『この世界の片隅に』でも、すずの「手=描く力」とのんの「声=語りの力」の対位法的な効果として変奏されることになるだろう。
 あるいは片渕の二作目の長編となる『マイマイ新子と千年の魔法』はどうか。
 昭和三〇年代の山口県防府市(三田尻駅が最寄駅)が舞台の作品である。主人公の青木新子(しんこ)は、空想好きで活発な九歳の女の子である(前髪のところにあるつむじを「マイマイ」と呼んでいる)。新子は、医師である父親の都合で東京から転校してきたが、クラスになじめない貴伊子(きいこ)と仲良くなる。方言の活用といい、地方の自然や街の精密な描写といい、「うちにしかみえん」空想の世界を夢見ることといい、新子は明らかに、『この世界の片隅に』のすずの前身である(新子の外見は、すずよりもむしろ、死んでしまった晴美が少し成長して小学生になったという感じだが)。主題歌もコトリンゴが担当している。
 新子は、家の前に広がる麦畑を前にして、昔あったという千年前の都のこと、その都に住んでいた少女のことを自由に空想する。麦畑には一見「何もない」かにみえるが、一〇〇〇年前には、そこに周防の国があったのだ(片渕には「一〇〇〇年」という時間感覚にこだわりがある――『アリーテ姫』にも「一〇〇〇年」が出てくる)。新子の空想によって、『マイマイ新子』の画面には、実在的な背景+子どもの落書き+平安風の絵などが重層化されていく。それが片渕にとっての「アニメーション」のマジカルな力でもあるのだろうが、新子はそうやって、一〇〇〇年前に生きていた庶民たちの暮らしを生き生きと実感していくのである。
 圧倒的な時代考証や調査に基づく緻密なリアリズムの中に、重層的な空想(メタアニメ化)を組み込んでいくということ。それが片渕のスタイルである。
 そして片渕の長編作品には、子どもたちが自由に夢を見られた場所から出ていかざるをえず、残酷で無慈悲な大人たちの現実に直面する、という構造的なパターンが見られる(『この世界の片隅に』の場合、それは結婚して広島市から呉へ移る、という過程の中に凝縮されている)。新子と祖父、すずと祖母のように、子どもと老人の間に特別な結びつきがあるのも、そのためかもしれない。
 そこから、次のような問いが生まれる。
 子どもでいられるという魔法が解けたとしても、大人の世界の苛酷さを生きながらなお魔法の力を忘れないとは、どういうことか、と。
 小さな世界に囚われ、幽閉された女性たちの孤独(アリーテは城の塔/地下牢に囚われ、新子の友人の貴伊子は「見知らぬ田舎の空気」に囚われ、また新子の空想中のお姫さまは平安期の囚われの姫であり、すずは北條家の嫁という立場に囚われる)。彼女たちの弱さと小ささ。それに耐え忍ぶ力。そしてそこにすらなおも消え残り続ける、魔法的なものの力(「手=描くこと」と「声=物語ること」)。
 それが片渕作品の女性たちの特徴であり、夢や幸福を打ち砕く現実の苛酷さに直面し、弱さと小ささを痛感する時にこそ「小さな魔法」の力が取り返されていくのだ。魔法も真実もありえないこの世界の片隅でそれでも戦い続けるとは、自分の小さな手の中にあるちっぽけな魔法の力を信じ続けることなのかもしれない。
 しかし、それならば、私たちにとって、いやこの私にとって、「絵を描くこと=小さな魔法を使うこと」とは、何を意味するのか。
 私(たち)はたんなるマンガマニアやアニメオタクのままでいるだけでは、やはりダメなのではないか。片渕の映画を前にすると、そんな気持ちが自ずと強まっていく。自らの手に魔法の力を宿し、自らの声に空想の力を宿した「新しい観客」へと自己変革を試み続けねばならない――それぞれのやり方で、それぞれの職分として天から与えられた「手」の力を通して。
 私たちもまた、解放された新しい観客になるのでなければならないのではないか。
   *
 映画版の『この世界の片隅に』の中でも、私たち観客に圧倒的な衝撃と享楽をもたらすシーンの一つが、二〇年三月一九日に、ついにすずたちのところに空襲が行われるシーンだろう。
 平和にのどかに、ツクシやオオイヌノフグリが咲いている。チョウチョやアブ、テントウムシが飛んでいる。すずと晴美は草を摘んだり、のどかに仕事をしたり、唄ったり、寝そべったりしている。と、唐突にそこへ喇叭の音が響き渡り、やがてあちこちから輻輳される。鉢巻山の山頂砲台が火を吹く。高射砲の連射がはじまる。空に黒い煙が炸裂する。敵機が現れる。爆音が聞こえる。灰ヶ峰の方角から、無数の敵機が飛来する。すずも晴美も、立ち尽くしてそれを呆然と見つめることしかできない。
 しかし立ち尽くすすずの眼差しには、心象として、空を埋める無数の敵機たちが不思議な絵画のように見えている。白、黒、赤、青、黄の五色の煙が、花のように空に広がる。その時唐突に、大空に絵筆が現れ、空というキャンバス=スクリーンを絵の具で染めていく。あたかもゴッホの星月屋のように、空が色とりどりに染まる。「ここに絵の具があれば……って、うちゃ何を考えてしもうとるんじゃ」。
 たとえば『シン・ゴジラ』の東京が燃え盛るシーンには圧倒的な破壊の享楽があり、『君の名は。』の空から降り落ちて町の人々を絶滅させる彗星の尾に崇高な美しさがあったように、すずの眼差しにおいては、空襲や爆撃は非人間的なまでに美しいもの、絵画のように魅惑的なものとして顕れているのだ。
 戦争は美しく、善悪を超え、人々の生死を超越するかのような享楽がそこにはある。すずはそれに見惚れてしまっている。『この世界の片隅に』は、決して、そのような不穏な欲望を隠してはいない。『シン・ゴジラ』や『君の名は。』とはまた異なる手法やグラフィックによって、『この世界の片隅に』もまた、戦争や爆撃の中にすら宿る圧倒的な美しさ、人々がぼうっとして受動的に見惚れてしまうような崇高な享楽を描き出そうとしているのである。これをただの反戦や平和主義のアニメーションとして片付けることはできない。
 だがそれだけではない。
 なぜならその非人間的な美しさにひたすら受動的に見惚れて没入しながらも、すずは同時に「描く」というかすかな能動性(最小限の批評的な距離)を決して見失わないからだ。魔法の力とは、万能のご都合主義の力ではなく、現実に魅惑され埋没してしまう瞬間にすら、現実に対して小さな距離を取ることであり、自分の置かれた状況をかすかに俯瞰して、斜め上からメタ的に客観視すること――主観と客観、受動と能動の間で自分を突き放すこと――なのであり、そのことによって、過酷で残酷な現実の運行の中にちっぽけな隙間やゆるみ、遊びを開くことなのではないか。
 『この世界の片隅に』では、いくつものメタフィクション的な仕掛けがかなり入り組んだ形で挿入され、複雑な色合いで織り合わされていく、と述べてきた。絵を描くというすずの行為は、アニメーション製作のメタ構造であり、自己言及的な行為である。ただしそれは、物語や世界全体を根本から改変してしまうようなメタフィクションではなく、あくでもこの世界の唯一性と不動性を受け入れながら、そこに無数の隙間や巣穴や遊びを作り出すような、ミクロでツギハギ的なメタフィクションなのだ。

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