ミセスパイナポーと彼女の無意味な労力

ミセスパイナポーはいつも忙しくしていた。
というのも、体だけでなく頭の中の活動も含めての話である。彼女は、何もかもが自分の人生を台無しにすることを恐れていた。実際には、彼女が何もかも心配しすぎることによって人生が台無しになっているんじゃないかということに気付くのが怖かった。朝起きてから寝るまで、彼女の活動は止まるところを知らなかった。何度も同じ箇所を掃除し、片付けたばかりの鉢植えにつまずいて余計掃除の手間を増やしたりそんなことばかりしていた。なかなか寝付かず、隣の夫に「ねえ、明日やっぱりグリーンアップルさんに謝りに行った方がいいんじゃないかしら。ああドキドキする」(グリーンアップルさんとは隣人で、先日彼女は荷物の配達先を間違えて彼の住所にしてしまったのだ。一度謝っているが、彼女には彼が怒っているのか何も気にしていないのか判然としなかった)「寝る前の薬を飲んだけど、なんだか胃がゴロゴロする感じ。もう一回ミルクを飲もうかしら。お酒の方がいい?」「私たち、まだ子供はいらない?もう本当に?」といった具合に話しかけ続けた。夫はどうしてこの二人がくっついたのかそれともこの二人だからくっついたとも言えるような呑気な性格で、彼女の質問責めを特に苦に思っていない様子で大丈夫だよ、と二、三回返事をして寝てしまうのが常だった。心配事を二時間三時間思案したあと、不安の中ミセスパイナポーは疲れ果て眠りに落ち、その代わり夢の中でまた心配事を続けた。もちろん、他の人から見てもわかるくらい体の方も忙しくしていた。健康のため野菜ジュースを作り、大豆タンパクのプロテインを飲み、サプリを飲み、ストレッチをして、朝から家中を駆け回った。彼女は専業主婦だったが、何か自分も仕事をした方がいいんじゃないかと常に求人を探し回っていた。夫の収入だけで老後まで二人は余裕を持って暮らせるにもかかわらず、彼女は節約をして古い洋服や家財道具を定期的に小道具屋へ持っていってわずかな金を手に帰ってきた。実は何度か彼女は働きに出たことがあるのだが、レストランでは自分がお皿を割って客にソースをこぼしてしまうのではないかという不安が頭から離れずキッチンから動けなくなり、その次に採用された本屋では店主の男が本当は自分の働きに対して給与を払うことを不服に思っているのではないかという想像にとりつかれ結局言い合いになってクビとなった。ミセスパイナポーは時たま、「もう何もしたくないわ。ただ静かに、何にも邪魔されずに横になりたいのよ…」と言って一滴涙をこぼした。その後は口を真一文字に引き結び、なぜ自分が涙を流してしまったのかという考え事に勤しんだ。夫は優しく彼女の背中を摩り、「僕がなんとかするから、君は大丈夫だよ」と言って、彼女の代わりにアスパラガスのソテーやじゃがいものガレット、ローストチキンを作ったりした。彼女はその間、何もしないことに努めようとした。体はソファに沈み込んでいたが、頭の中で彼女はいくつものレーンを用意し何種類ものパンを捏ね、発酵させ、成形し、焼き上げ、包装し続けていた。クラシックとロックとポップスといった数種類のBGMも同時に流れ、無作為におしゃべりを続けるパン職人たちは国籍階級身体的特徴全てバラバラだった。せめて焼き上がったパンをここに持ってこれたらいいのに、と彼女は机の上の空き皿を眺めながら、天高くそこにパンを積み上げる空想をし自分の脳内と実世界を行ったり来たりした。そして、閃いたかのようにカーディガンを羽織っていつものカバンを手に取り近くの食料品店へパンを小走りで買いに行ってしまうのだった。
彼女はある時に、このまま放っておくと世界が崩壊してしまう予感がする、と言った。夫は彼女がいつも疲れて悪い考えを止めることができない時があり、今回もそれがエスカレートしているのだと知った。
「だってほら、西の方の空が変な色をしているわ。それに見て、あんなに鳥が行ったり来たりしているのを見たことがある?ヒッチコックの映画みたいよ」彼女は不安そうに窓から外を除いた。確かにちょっといつもより燻んだ色に見えるが、この時期の空なんてこんなものだろうと夫は考え適当に返事をした。夫はヒッチコックが何か知らなかった。婦人の趣味のよくわからない本のタイトルだろうと想像した。そして、先日仕事帰りに婦人にとって良いだろうと思った坐禅教室のチラシを渡した。チラシの上では、いかにも健康そうな東洋人のスキンヘッドの男が柔和な笑みを讃え入会を促していた。
「東洋の、ヨーガというのを教えてくれるそうだよ。君は何か習い事をやりたいと言ってただろ、値段もそんなに高くないみたいだしこれがいいんじゃないかな」
値段が高くない、というところが彼女は気に入った。そして彼のいう通り、彼女は自分の欠落を埋めるための習い事を、世界中の趣味の中から探し続けていた。ヨーガというものはテレビでも見たことがあり、興味があった。結局次の週から週三度、彼女はヨーガ教室に通うことにした。実のところ値段が高くないということなどはないのだが、彼女はものの値段が高いのか安いのか、特に習い事なんて実態のないものへ払うお金については何一つ基準を持っておらず、夫がそういうのだからそうなのだろうと信じたまでだった。夫婦の間には彼女の気狂いじみた行動を止めるには至らない、信頼があった。夫は彼女にとってこの世で唯一の安らぎの可能性を示唆してくれる存在であった。それが、ヨーガの教室から初めて帰ってきた日の彼女は、夫の目から見ても違いが明らかであった。夜夫が帰宅すると、鍋を煮込みながら掃除機をかけてはいたもののいつもの彼女から漏れ出している、切羽詰まったオーラのようなものが無かった。
「お帰りなさい!」彼女は明るく夫に声をかけた。
「調子がいいみたいだね」
「そうなの。今、私掃除機でゴミを吸い取ることで頭がいっぱいなの!ほら、綺麗になるのがとても嬉しいのよ。他のことなんてどうでもいいの」
「それはよかったね」答えながら、夫は彼女の代わりに、煮立って吹きこぼれそうなポトフスープの火を止めた。
「何があったんだい」食卓につき、ワインを注ぎながら夫は尋ねた。
「ヨーガ教室でね、坐禅の練習をしたのよ」
「坐禅?」
「そう。ただ座って、何もしないでじっとするのよ!!」
『何も』に強くイントネーションを置いて、彼女は自分で話しているにもかかわらずそれが前代未聞の言葉であるように目を見開いた。
その日から、彼女はみるみる調子が良くなった。非現実的な心配事が減り、忘れ物が減り、無気力な時間が減った。その代わりにその日にしなければならないことだけに集中し、無駄なことをしなくなった。三週間も経つと、彼女は家の中でも積極的に「坐禅」を実践するようになった。十五分、三十分、一時間と彼女があぐらをかいて目を閉じる時間は増えていった。余計なおしゃべりは減り、心なしか贅肉も減った。物静かで少し痩せた彼女に、夫は時たま別人の女かのようなミステリアスさを感じどきっとした。休日、彼は久しぶりにミセスパイナポーとセックスしようとした。夫人はその頃には床に着くとものの五分で寝てしまうようになり、その日も「ごめんなさい、眠らせてね…」と言って顔を背けて寝てしまった。
次の日夫は出勤のため外に出ると、赤紫色の空に大きくヒビが入っているのを目撃した。何がどうなってしまったんだ?と一瞬頭によぎったが、彼はいつもの冷静さを取り戻し会社へ向かった。街の人たちも空を見上げ、あれこれ口にしていた。テレビのニュースでも前例のない空の異常についての報道がひっきりなしに流れた。会社でもさまざまな憶測が囁かれた。しかし、空にヒビが入ったというだけでこれといって何か起きるわけでもなく人々はいつも通り社会を維持させるための活動に従事した。夫が家に帰ると、別人のように穏やかな顔つきになったミセスパイナポーがここしばらくの通り全ての食事の準備を終え、食卓に座していた。
「君、空がおかしなことになったね…」
「ええ、あれは大丈夫よ。あなたは何もしなくていいの」
夫人はやけに冷静だった。言葉も意味深だ。だが夫は、彼女自身が以前と変わって基準を失ったこの家の中で何と何を比べて「おかしく」なったのか、もはやわからなかった。夫が夕食を食べ終えると彼女はいつも通り片付けをし、翌日の準備をして、身支度を終え少しテレビを眺めるとそそくさと寝てしまった。彼女はもはや「必要」な言葉以外話さなくなってしまった。
空を含む世界の様子は段々と悪化しているように見えた。鳥を含む生き物たちが異常な行動を見せたかと思うと、さっぱりどこかへいなくなってしまった。海は波打つのをやめ、さざめきはもはや聞こえなかった。空は時間の経った内出血のような、不安をパレットに垂らしたような歪んだ色をしていた。環境の変化や宗教的不安からテロや紛争が増え、アメリカ大統領を含む各国の代表がきっぱりと「世界になんらかの異常事態が起きている」と告げた。人々は不安の中、なんとか世界を動かし続けた。夫の会社も通勤を中止しテレワークに切り替わることになり、テレワークに切り替わる前の最後の週となったある日のことだった。夫が駅に向かって歩いていると、メキメキと大きな音がどこからか聞こえた。巨大な何かが裂ける音がした。ああ、これは世界が裂けているのだ、と夫は直感的に思った。空を見上げると、巨大な氷塊にハンマーを打ち込んだように、また空は卵の殻の如く薄くて軽いものだったと言わんばかりにヒビがどんどん広がっていった。空のどす黒い紫色をした一部が、上から下へ落ちて地面にぶつかった。巨大な空の破片の下にいた人たちは当然下敷きになった。空が剥がれ落ちた部分は、その向こうが見通せないくらい濃い黒色をしていた。闇があそこにある、と夫は思った。そうしている間にも空はバキバキと大きな音を立てながら剥がれ落ち、その隙間から見たこともない生物がどんどん降ってきた。さまざまな生物を出鱈目に組み合わせたようなのもいれば、言葉にして言い表せないような意味のわからない悍ましい姿をしたものが大小さまざま地上に現れ、人々を襲い始めた。そこら中が阿鼻叫喚の騒ぎとなり、夫は皮膚が緑色の粘膜に覆われ、人間の赤ちゃんの顔があるべき部分に恐竜の顔がくっついた生き物と目が合い、家に帰らなけらばと思った。
意味不明な造形をした魔物たちと人間の抗争、いや魔物により人間が無慈悲に殺戮されていく中を掻い潜り抜けながら夫は家のアパートに入り込んだ。外から大量の人間の血か何かわからない真っ赤な液体が雪崩れ込んできて、夫は慌てて螺旋階段を登った。階下の家から子供や大人が泣き叫ぶ声が聞こえる。夫は階段を登りきり、なんとか家にたどり着いた。
ドアを開け、家中を探しても妻はいない。半狂乱で名前を呼んでいると、
「どうしたのあなた」と落ち着き払ったミセスパイナポーの声が寝室から聞こえた。なぜ寝室にいるのだろうと考える間も無くそちらに目をやると、外での惨事など何事もなかったかのように夫婦のベッドに知らない男が横たわり、その上に全裸の妻がまたがって首だけこちらに向けていた。ごく自然に情事が行われている最中の姿に見えた。夫は混乱した。なぜこんな朝から?そしてそれよりも、ベッドの上で妻の腰に手をあてがって痩せた目を見開いているのは、ヨーガ教室のチラシで目にしたことがあるあのスキンヘッドの男だったからだ。

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