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シニョレッジ~貨幣の原点から

富本銭・日本の貨幣の始まり

奈良に住んでいるとものごとの原点にふれることが多い。国家のはじまり、文字のはじまり、建築、紙、印刷、戸籍、農耕、土地台帳、租庸調など税制など日本文明全ての原点がここに刻まれている。貨幣の鋳造とその使用方法にについても同様である。

奈良県の明日香村にある万葉文化館の建築にあたって、発掘調査をしている途上で発見されたのが「富本銭」の鋳造跡であった。この施設では当時の状況を再現している。工房で銅を職人が溶かして、鋳型にはめて作り出す様子だ。このシンプルな作業を見れば、古代国家の貨幣製造過程が自然と肌に伝わってくる。

日本書紀の持統天皇記には「凡負債者、自乙酉年以前物、莫收利也。若既役身者、不得役利」という一文がある。千数百年前に「債務者、負債者」存在したことを明記しているのだ。

この話は、持統天皇が即位にあたって「徳政令」を出して負債者を救ったという内容で、当時の債務者はつらい目に合っていたようだ。「先の天武天皇の御代14年より前の負債に対して金利をとってはいけない」という内容だ。天武の治世は14年間なので、今後は借金について元金は回収してよいが金利はとってはいけないと宣言したのである。

これに先立つこと4年前の天武12年に「自今以後必用銅錢、莫用銀錢」(ここから先は銀の銭ではなく銅の銭を使うように)という政府発表が出ている。だから負債とは銭の話であると分かる。この銅銭こそが「富本銭」である。

飯田泰之氏が昨年出した「日本史に学ぶマネーの論理」はこの古代貨幣の通貨発行益(シニョレッジ)をわかりやすく伝えようという努力作である。この著作を書くには、専門的なマクロ経済だけでなく、日本史の該博な知識も必要なので、かなりの苦労を重ねたと思われる。

古代国家の貨幣発行益

飯田氏は古代国家の貨幣発行プロジェクトと貨幣発行益について「名目貨幣を発行し、それが民間経済に受け入れられるようになると、政府は貨幣発行から利益を得ることが出来るようになる」と説明している。しかし政府が貨幣を発行しても、初めて貨幣を見た人はそれを信用して受け取ってくれるだろうか。

つまり、貨幣発行プロジェクトの成功、政府が通貨発行益をうけとれるようになるためには人々が貨幣を価値あるものとして受け取ることで貨幣(銭)が流通することがポイントでもある。日本書紀の説明から、富本銭は貨幣としてそれ以前の銀銭に紐づいていたのだろうな、ということは何となくわかる。但し、それがどれくらいの交換レートだったのかまでは、分からない。

飯田はさらに「貨幣発行によって財政収入を得るためには、発行した貨幣がその製造コストを上回る価値で流通しなければならない」と述べている。

     名目貨幣発行額 ー 製造コスト = 発行益(シニョレッジ)

この差額こそが国家が手にする「発行益(利益)」なのである。当時の利益がどれほどであったのか、またどれほど富をてにいれられたかはわからないが、信濃の国(長野県)で富本銭が発見されていることから一定の流通があったとみられている。しかし、わずか20年後に再び和同開珎が発行されたことを考えると大成功とはいえなかったのだろう。

大和朝廷、二度目のチャレンジ和同開珎と租税貨幣論

和同開珎は長年、最も古い貨幣といわれてきた。一方で古代史の専門家からは流通に対する疑いも多く、地鎮具としてまじないに使われる程度だろうといわれてきた。しかし、古事類苑の「物価(もののあたい)」の項目をみると、東大寺への献納が薪など現物から銭に代わっていく経緯がいろいろと説明され、ものに価格がつく過程とされている。これからすると、当時の首都で一定流通していたことが推定される。

古代貨幣・富本銭の発見者でもある松村恵司氏(奈良文化財研究所所長)は「和同開珎をめぐる研究」において、古代における政府の貨幣流通政策を時系列で丁寧に研究している。流通のために和銅4年以降、いろいろの策を打っており、古代政府の涙ぐましい努力が伝わってくる。

その中で最も重要と思われるのは、和銅五年12月の詔「調庸銭の規定」である。「諸国の送れる調庸らの物は、銭を以て換えるに、銭五文を以て布一常に准うべし」今後は、「租庸調など現物の代わりに銭をうけとることにします、銭五文と布一常を交換レートとします」という政令である。

これは、古代政府が自ら発行した貨幣を「最終的に税金として自ら回収しますよ。だから安心して受け取りなさい」ということを伝える宣言である。しかも交換レートまで定めているので、飯田氏の言う名目価格の決定を行っているのだ。

日本書紀には富本銭に関するこのような詳細な経緯は記されていない。和同開珎プロジェクトは前回とは違って、数々の流通の努力が確認できるのだ。

二つの古代貨幣、富本銭と和同開珎を比較することで、古代政府の貨幣発行プロジェクトの失敗と成功も見えてくるのではないだろうか。富本銭の発見だけに終わらず、古代社会の貨幣流通政策について研究した松村氏に敬意を表したい。

さらにいうと、和同開珎を発行した「天平時代」という千三百年前の首都における伽藍の数々、つまり公共工事の後を奈良では今でも確認できる。天平時代には、東大寺、興福寺、薬師寺、大安寺、西大寺など、次々と壮麗な寺院が建築されていった。その後の毛岸の中で、何度も燃え、また再建された東大寺だが、いまでも世界最大の木造建造物である。しかも、当初の伽藍はいまよりも、もっと大きかったといわれている。

日本の古代は、首都人口十万人・全人口百万人と推定されている。その時代に、わずか数十年でこのような建築群がどうして出来たのだろう。さらに正倉院には当時の天皇の燦然とした宝物がいまも残されている。海外からの宝物も山のようにある。当時の朝廷はどのようにして、このような巨万の富を手に入れたのだろう。

これこそが、貨幣発行益を利用した古代の有効需要の成果ではないか、と筆者は正倉院展に行くたびに感動するのである。

租税貨幣論 MMT現代貨幣論と古代貨幣の共通点

政治体制は変化し貨幣の名称も発行までのスタイルも変わったが、政府という主体が貨幣を発行する以上、実はその本質は変わりがない。

シニョレッジ4

政府と日銀が一体となって発行する時に得られるシニョレッジは、古代政府がそれを得た仕組みと本質的には同じである。日本の歴史は、中国と比べると短いが、世界各国の中ではかなり長い。しかも天皇という存在は、このころから変わりがなく、日本書紀・古事記以外に正倉院やその他寺院に残された歴史文書が多数存在する。貨幣の原初的な姿を歴史から検証できる稀有な国なのである。

MMT現代貨幣論では「租税貨幣論」という説を重視している。政府が貨幣を税として受け取ることを通じて、貨幣の最後の引き取り手の存在を明確にし、それを通じて市場に信用を与えるという理論だ。

紙切れに過ぎない貨幣は簿記の仕分けでいうと政府部門の債務である。民間企業の振り出し小切手や手形と同じ考えだ。その債務を発行主体である政府が最終的に税金の支払いとして受け取る。最後の受取の主体が政府だからこそ、人々が安心して受け取ってくれる。それが信用というものであり、貨幣の本質である、という理論である。

MMTは歴史の浅い、建国と同時に中央銀行が存在するアメリカやオーストラリアで発展したので、仮説にすぎないように受け止められている。

しかし、日本のような歴史の長い国、しかも「日本書紀」「続日本紀」といった歴史文献が存在する国では、通貨発行プロジェクトの成否で、それが確認できるのだ。

最後に受け取る人がいるからこそ貨幣として流通する。最後に必ず受け取ってくれるのが「政府」だとすると、政府が揺るがない限りは安心できる。むしろ、納税ということを考えたら、絶対に持っておかないといけない。だからこそ貨幣は流通するのだ。和同開珎の成功は、まさしく和銅五年の詔が大きかったのである。

MMTの「租税貨幣論」の正しさは日本の古代史で検証されたといえるかもしれない。

誰かの債務は誰かの資産

「誰かの債務は誰がの資産」簿記では確かにそうだ。それからすると「政府の債務である国債は、国民にとって重要な資産であり、多額の国債発行は何の問題もない」というのがMMTの主張は、なかなかの難物で経済学者も困るところが多々あるだろう。特に、日本で財政再建の論陣をはる財務省とそのお抱えの経済学者は大変である。

一番の問題は簿記だ。「会計学」という精緻な学問体系が出来上がっているので、会計で攻められたら論駁しにくい。国内でMMTの論客は自民党の西田昌司参議院議員と安藤裕衆議院議員だが、二人とも税理士出身、まさしく会計のプロである。予算を会計学的に攻められたら、財務省も経済学者も太刀打ちできなくなる可能性はかなりある。

しかし、簿記も発明である。経済取引を記録していくことで経営状態をわかりやすくするためのルールである。日本のような歴史の古い国には、簿記の発明以前に貨幣発行とマクロ経済政策が存在し、歴史的に検証できる。だから、マクロ経済学者はMMTの非難を行うのであれば、日本の貨幣研究の先駆者岩井克人氏と飯田泰之氏の著作をもっと深堀して、学びなおすべきだ。そして貨幣の原点について学ぶべきだ。

そうすれば租税貨幣論の正しさとシニョレッジの存在を確信できるだろう。

飯田氏と松村氏の研究はMMT現代貨幣論ではない。簿記が存在しない古代に貨幣が生まれたときから存在する貨幣の力に関する研究なのである。

貨幣には無から有を生む力があるのだ。


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