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vol.2 伊藤 心

いざ振り返ってみると、

僕のサッカー人生はただただ幸せな時間ではなかったように思えます。

悩みに悩む日々でした。

頑張れば頑張るほど損をするタイプ。

そう思われていたかもしれません。

でも、

「大変」な日々を過ごしたからこそ、

「大」きく「変」わることができました。

努力は必ず報われる。

それは綺麗事だと思います。

報われない努力だって存在します。

でも、

「行動しなきゃ、何も変わらない」

努力は決して無駄にはなりません。

自分が目指していた方向じゃなくても、

努力は必ず形を変えて自分に返ってくる。

僕はそう思います。

そして何よりも、

僕がサッカーを通じて1番感じることは、

「繋がり」は尊い。

これに尽きます。

僕はサッカーで培った繋がりを
生涯大切にしたい。

その繋がりに恩を返すために、
夢に向かって1日1日全力で生きる。

今日も全力で生きるために自分に問います。

「明日死んでも後悔しない?」



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いつも応援ありがとうございます。

まず初めに、

コロナウイルスの影響で活動制限がかかるようなご時世にも関わらず、SS伊豆を支えてくださっているスポンサーの方々、現地まで足を運んでくださっている、遠くの地から応援してくださっているサポーターの方々に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

今季もSS伊豆への変わらぬご声援をよろしくお願いいたします。

自己紹介が遅れてしまい申し訳ありません。

今回のnoteを担当させて頂くことになりました、

SS伊豆14番、伊藤 心です。

「心」と書いて「じん」と読みます。

栃木県宇都宮市出身の23歳です。

おそらく、
みんなに僕の印象を聞いた時に「真面目」という返答が大半だと思いますが、楽しいこと大好き、おふざけ大好き、サッカー大好きの少年と認識して頂けたら嬉しいです。

加入して2年目。

決死の覚悟で伊豆の為に全身全霊で闘います。

伊豆という地を盛り上げるべく、
地域やサポーターの方々との繋がりを武器に
アマチュア最高峰を目指して精進します。

共に東海へいきましょう。

今後とも応援よろしくお願いします。

前回のアキ同様に、これまでのサッカー人生を振り返ることで、僕のことを少しでも知って頂けたらと思っていたのですが、振り返れば振り返るほど止まらなくなってしまいました。

簡潔に伝えたいことをまとめようとも考えたのですが、このようなサッカー人生を振り返る貴重な場は滅多にないと思い、僕の全てを書かせて頂きました。

そのため、
次回の指名を先にさせて頂きます。

次回は、

98年組、熱海出身の新加入選手、

「鈴木 海都」に託します。

僕もまだ彼を知ることが出来ていないので、
非常に楽しみです。

ご期待ください!

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みなさんにはご不便をおかけしますが、また、貴重な時間を割くことになってしまいますが、お時間がある時に目を通して頂けたらと思います。

よろしくお願いいたします。

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サッカーを始めたのはいつだろうか。

物心がついた時には、
ボールを蹴っているのが当たり前でした。

それもそのはず、僕の週末は6歳離れた姉のサッカー観戦が当たり前。

家族との思い出を振り返ると、どこかへ旅行で出かけた思い出より、家族で試合観戦がほとんどだと思います。

姉の試合を観に行っては、父とボールを蹴ったり、ひたすら1人でボールと戯れていました。

「お姉ちゃんのサッカーじゃなくてどこか遊び行こうよ!」

ということもなく、サッカー漬けの毎日に不満を抱くことすらなかったです。

姉の試合会場でする球蹴りが物凄く楽しかったんだと思います。

また、当時のサッカーをしている姉が本当にかっこよくて憧れでした。

そんな姉の影響で、姉が所属していた女子サッカーチームの「河内SCジュベニール」で本格的にサッカーを始めました。


姉が与えてくれたサッカー。
歳上のお姉さんたちに囲まれて育った幼少期。
これが僕とサッカーの原点です。


基礎基本はもちろん、僕の武器である「技術」。

これはジュベで練習した日々が全てと言っても過言ではないと思います。

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本格的にサッカーを始めたとはいえ、女子サッカーチームなので試合に出れません。

サッカーをすればするほど楽しさにハマっていった僕は、試合に出たいという欲が出ます。

小学3年生の頃、「ともぞうSC」というクラブチームに入りました。

ともぞうは当時から強豪で、県内で知らない人はいないぐらいでした。

基礎基本に忠実で、技巧派で有名なチーム。

高校や大学、アルバイトでしていたサッカースクールでも、ともぞう出身というと「通りでその技術だ」とよく言われます。

今でも、
ともぞうで磨いた技術は僕の誇りです。

そんな強豪のチームでサッカーをすることになった僕ですが、練習してみると思っていたよりすんなり溶け込めました。

試合経験は無いものの、ジュベで培ってきた技術が僕の自信に変わった瞬間でした。

ともぞうで技術にさらに磨きがかかり、また、今までには経験してこなかった勝ち負けというものを知ることでサッカーってこんなに楽しいんだと感じました。

しかし、そんなのも束の間、
僕の代には格が違う2人がいました。

この2人は飛び級で上の代の練習に参加していてその時はいなかった。

県選抜はもちろん、関東選抜にも名を連ねる2人を前にした僕は怖気づきました。

また、僕も小学5年生ぐらいで県選抜に推薦してもらったのですが、そこでも他のチームから集まる強者にビビりまくりの日々でした。

1つ上と2つ上の代で全日本少年サッカー大会に出場したり、自分の代でバーモンドカップに出場したりなど、数々の全国大会を経験したものの全てグループリーグ敗退。


まだサッカーが楽しい球蹴りでしかなかった当時の僕には厳しい現実でした。


まだこの時の僕はサッカーで上を目指すという志はなかったです。

中学では部活でやろうと思ってました。

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しかし、僕が行く中学校にはサッカー部がなく、「ともぞうSCジュニアユース」の2期生としてサッカーを続けることになりました。


僕のサッカー人生においての全盛期と言っても過言ではないぐらいの中学時代でした。


前に書いたように、ジュニア世代で有名なともぞうが新しく作るジュニアユース。

人が集まらないわけがありません。

初年度にも関わらず、セレクションではもちろん定員オーバー。

その中から選ばれた人で結成された1期生は、ジュニア時代に県選抜や関東選抜に名を連ねる人たちがたくさん。

しかし、僕の代に集まった人数は12人。

1期生が結果を残してくれたことから、初年度から県リーグではなく、メトロポリタンリーグ(Jリーグが主催している関東リーグ的なものです)に所属していました。

12人で臨んだ記念すべき初戦の相手は、
「川崎フロンターレ」。

結果は、0-10。

打ったシュートはたった1本。

神奈川まで足を運び、0-10で負け、グラウンドの周りを走る。

そんな初陣が僕の中学3年間の始まりでした。

結局、そのリーグは-50を超える得失点で最下位に終わりました。

負けることが当たり前のような週末。

ジュニア時代とは比べ物にならないぐらい高いレベルを経験しました。

そんな経験もあり、伸び代を感じた僕は、ジュニア時代に恐れていた強者たちに負けたくない一心でひたすら練習しました。

オフの日も家の前で日が暮れるまで練習しました。

テストがあっても練習を休むことは絶対にしなかった。

どんな相手だろうと、チームで対抗できなくても、個で一矢を報いてやろうと必死に過ごした3年間。

それでもまだまだ力及ばず、中学3年間は関東大会や全国大会などに出場することはなく結果を出せずに終わりました。

しかし、能力が高い先輩方に揉まれ、同期と共に這い上がってきた日々、これ以上ない相手と試合ができ、キャプテンも務めました。

挫折も経験しました。

辛いことも多々ありましたが、そのおかげでサッカーだけでなく人として大きく成長できた3年間。

練習すればするほど上手くなり、もう本当にサッカーが楽しくて楽しくてたまりませんでした。


今思うと1番サッカーを楽しめていた時期だと思います。



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高校は、地元の強豪「矢板中央」に進学しました。

ユースや県外の強豪校へ練習参加もしましたが、憧れの選手権に出ると言う目標を達成するため、この決断をしました。

正直、技巧派チームで育った僕のプレイスタイルは、当時の矢板中央には向いていないと思っていましたが、スカウト担当の方の熱烈なオファーに胸を打たれてこの決断に至りました。


こんなにサッカーに明け暮れた日々は、後にも先にも無い。
そう思うような3年間。


100人を超える部員に、ナイター完備の人工芝のグラウンド、トレーニングジムもありました。

1時間かけて通学し、授業を受け、練習し、自主練。

始発で行き、終電で帰る。

そんな日も多々ありました。

行きと帰りの電車はもちろん爆睡。

吊り革に捕まって立ったまま寝ていました。

信じられないと思いますが、家でご飯を食べながら寝ていることもありました。

それぐらいフルパワーで1日1日を過ごしていました。

入部して1ヶ月でトップチームに所属し、
1年生ながらインターハイ予選に出場。

ルーキーリーグ関東で優勝、
MVPも授与することが出来ました。

国体でも関東ブロックを突破し、
5年ぶりに出場することが出来ました。

もちろん選手権予選も突破し、
全国の切符を手にすることが出来ました。

幸先の良いスタートを切れているように思いますが、僕が全国のピッチに足を踏み入れることはありませんでした。

メンバーには選出されましたが、
ベンチ外のサポートメンバー。

身体が小さく華奢だった僕は、数々の強豪校と闘える基準に満たしていなかったのだと思います。

ピッチの目の前で試合を眺めていることは、本当に悔しかったです。

この悔しい経験を機に、ただ自分の良さだけを出しているだけでは試合に出れないことに気付きました。

監督のニーズに応える。

試合に出るためには何が必要かということを常に考えるようになりました。

球際、攻守の切替、ハードワーク。

僕は守備に重点を置きました。

その努力が報われたのか、2年生では憧れの選手権に、全国のピッチに立つことが出来ました。

本当に最高の舞台でした。

大勢の観衆、Jリーグで使用する天然芝の最高のピッチ、周りの声が聞こえない程の応援、たくさんの応援メッセージ。

全てが最高でした。

でも、悔しい思いもしました。

試合には勝てたとしても、
途中交代の自分がとても悔しかった。

何も出来ず交代された悔しさを隠しきれず、そのままロッカールームで涙を流した試合もありました。

結果、ベスト16で敗退。

夢のような時間に終わりを告げました。

その悔しさを晴らすべく、
自分の代になりました。

夏のインターハイ。

初めて自分たちの代で掴んだ全国への切符。

これはまた格別でした。

広島で行われた全国は1回戦敗退。

またしても、何も出来ずに終わりました。

最後のチャンス、冬の選手権。

県予選の準決勝で敗退。

打たれたシュートはたったの2本。

前半途中のPKを外した僕は、頭が真っ白になりその後は全く覚えていません。

もちろん前半で交代。

それが僕の高校サッカーの最後の試合でした。

「終わり良ければ全てよし」という言葉がありますが、終わり悪ければどんなに良い思い出があってもその印象が1番頭に残ります。

1度も外したことがなかったPK。

1試合で3回蹴ったこともありました。

それでも、3年間で外したたった1回のPKが僕の高校サッカーなんです。


絶望でした。


しかし、矢板中央で過ごした3年間に悔いはありません。

今でも矢板中央出身ということを誇りに思います。

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そんな僕に声をかけてくれる大学もありましたが、当時の僕は大学の知識がなかったためどこが良くてどこが強いとか分かりませんでした。

地元の大学にも声をかけてもらえたので、地元の「作新学院大学」に入学することに決断しました。



サッカー人生において1番苦しい日々。
あんなに大好きなサッカーが嫌になった。
でも、それ以上に学びが多く成長できた。
そんな大学生活でした。



1年生からトップチームにはずっと所属していたものの、公式戦の出場時間は多くはありませんでした。

監督が4年間で3回変わり、
ポジションもその度に変わりました。

SBで天皇杯予選を闘ったこともありました。

「監督が合わないから」

「自分の得意なポジションじゃないから」

上手くいかない時はこのようなことばかり思っていました。

自分にフォーカスできていなかった。

このままじゃ無駄に4年間過ごすことになる。

それに気づいたのは、
大学2年生の終わりの時でした。

2年間という貴重な時間を無駄にした。

そこからは死に物狂いで取り組みました。

3年生になって、
やっと試合に出れる時間が増えました。

やっとです。

やっとスタートラインに立てました。

当時、北関東リーグに所属していた僕たちは1敗でもしたら参入戦には進めない。

その年は、毎年圧倒してきた相手を前に勝ち点を落としてしまい参入戦に進むことはなかった。

どこにもぶつけようがない悔しさ。

虚無感にとらわれました。

何も考えられない、怒りなのか悔しさなのか得体の知れない感情の中、運営を担当していたことを今でも鮮明に覚えています。

4年生になりました。

強豪校から集まる後輩たち。

また試合に出れない日々が続きます。

それだけでなく、コロナウイルスが流行り出した時期でもあり、リーグ戦の試合数の減少。

練習さえ出来ませんでした。

最終学年、何かを変えないと関東2部昇格という目標には届かない。

チームのことを考える日々が続きました。

自分のことでも精一杯なのに、練習中ずっとチームのことを考えていた自分がいました。

でも仕方がなかった。

当時の作大は、数々の強豪校から集まっていて、前所属だけを見たら関東1部の大学にも引けをとらないようなメンツでした。

結果を出せなかった3年間から、チームの為に行動していた先輩から学んだチーム力の大切さ。

必ず昇格できるという自信があったからこそ、そこを変えるべく取り組みました。

たくさんぶつかることもありましたが、
徐々にチーム力も向上していきました。

少し余裕が出来た僕は、試合に絡む時間も増えてきて、チームとしても勝ち点をこぼすことなくリーグ終盤を迎えようとしていました。

やっとピッチの上でチームに貢献出来る。

そう思っていた矢先、僕はサッカー人生において初めての怪我をしました。

なんでこのタイミングなの。

なんで俺なの。

悔しくて悔しくてたまりませんでした。

何もかもどうでも良いとさえ思いました。

でも、次の日には松葉杖をついて遠征にサポートで行く自分がいました。

何が何でも昇格したかった。

ただそれだけでした。

リーグ戦最終節の首位攻防戦。

無事に優勝し、参入戦に駒を進めました。

ベンチに入ることは出来ましたが、試合に出てチームに貢献することは出来ませんでした。

嬉しさよりも悔しさの方が強かったです。

とても悔しかったです。

参入戦では絶対活躍して昇格を決める。

そう心の中で誓いました。

4年間で初めてメンバーに入って臨んだ参入戦。

初戦で勝利し、コロナウイルスの影響で1つの大学が辞退、引き分け以上でグループリーグ突破の最終戦。

惜しくも1点差で負け、グループリーグ敗退。

出場時間は全試合含めて20分。

僕の大学サッカーが終わりました。

試合直後のミーティング。

プライベートでも一緒にいる時間が長く、共にチームの為に動いてきた、ピッチでもみんなを引っ張ってきたキャプテンが、泣きながら僕の名前を出すんです。

「頑張ってきて良かった」

4年間の努力が報われた気がしました。

ピッチでチームに貢献することは出来なかった悔しい4年間でしたが、本当にたくさんの人に支えられたとても濃い大学生活でした。

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大学で過ごした時間が非常に濃かった分、終わった瞬間はやりきった感もありました。

恩師の推薦もあって大学院へ進学しようと考えていましたが、ピッチの上でチームに貢献することが出来ていなかったため、このまま現役引退していいのかという葛藤もありました。

サッカーへの未練を断ち切るため、最後に「SS伊豆」へ練習参加することに決めました。

練習参加後も悩みに悩みました。

恩師が僕の為にいろいろ大学で動いてくれていたということもあって、その期待を裏切りたくない気持ちや地元に貢献したい気持ち、地元には家族もいて友達もいる。

それでも迷っていたのは、SS伊豆に行きたい自分がいたからだと思います。

SS伊豆の、みんなの温かさに惹かれました。

恩師や友達に背中を押され、22年間過ごした地元を離れ、SS伊豆へ加入することに決めました。

加入して1年になりますが、本当にいろいろなことを学ばせてもらっています。

伊豆にきて本当に良かった。

心の底からそう思います。

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これが僕の全てです。

上には上がいます。

プロになったって、

日本代表になったって、

世界を代表する選手になったって、

上には上がいます。

現状に満足してる余裕はない。

常にそう意識して日々精進します。

身の回りにはプロで活躍してる選手がいっぱいいます。

身近だった人が世界を相手に闘っています。

カテゴリーは違うかもしれないけど、
負けられない。

僕はプロになれなかった身ですが、
プロになれなかったからこそできる経験もあると思います。

そんな経験を基に、いつか人に影響を与えられるよう、僕は僕なりの存在価値を求めて、抗って生きていきます。

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最後まで読んで頂きありがとうございます。

長々と書き連ねてしまいましたが、
何よりも僕に関わってくださっている方々に感謝を伝えたいです。

本当にありがとうございます。

今後ともよろしくお願いします。

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