能動的な勉強は自分へのブランディング

(1)勉強しなきゃいけない、やらされてる感

世の中の子どもたちが勉強を嫌いな理由は1つ、やらされてる感があるからだと思う。

私は中、高と勉強があまり好きではなかった。確かに、数学の難しい応用問題が解けた時や、やってもいない理科の実験を丸暗記してテストでそれが出てきた時など、嬉しいと感じる瞬間はあった。

だが結局は親の「教育を受けさせる義務」によって私たちの「教育を受ける権利」は権利ではなく義務のようなものに成り果てる。「教育を受けさせる義務」により私たちは、学校に行かされ、勉強させられ、テストを受けさせられるのである。

権利であればそれを行使するのは自由だし、行使するということは、自発的な行動であり、能動的であると言える。しかし実際は義務になっている。

多感な思春期によくありがちな「勉強しなさい」「今やろうと思ってたんだから口出しするな」が、この義務と権利の関係により、ある種全生徒にそれが課せられているような錯覚に陥る、と私は思う。こういうの言葉にするの難しい。

結局、無理やり勉強をやらされていることを生徒たちが自覚すれば、それはもう思春期の性なので途端にやる気をなくしてしまう。かもしれない。

先生目線、つまりは「勉強って意外とおもしろい」「なにこれ、気になるから家帰ってから調べてみよう」と思わせることが重要なのかなと思う。実際自分が子どもの時なんてやりたくないし別に知りたくもなかったな〜。




(2)何かのスペシャリスト

勉強の面白さに中高で気付いている人って人生2周目?

勉強している人の会話は面白いし、勉強している人の感性は豊かだし、勉強している人は凄い。
何かのスペシャリストってカッコよすぎる。
何かに長けた人間になるには、その分野を勉強するしかない。
そのようになれるかどうかは自分次第である。いや、そうなる人は最初からそうなろうとしていないし、いつの間にかそうなっている。

とにかく探求して、とにかく勉強して、とにかく練習して、周りが見えなくなる感覚。そしてその感覚のまま突き進み、ライバルは比べる価値の無いほど後ろにいる。ドラムをやってた時の私である。
どんな勉強にもそんな感覚が生まれればもう多才な男になれそうである。
いまのところはドラムだけ。

そういう経験は今でも役に立つし、自分の可能性を肯定する材料になる。ありがたい。
そんな自分より何倍も努力して何倍も勉強している人達がいるのは怖すぎるけど。

(3)勉強は五教科だけじゃない

勉強とは、中高の五教科の勉強に限らず無限に広がっている。どんな勉強も自分を進ませる礎になるし、自分という人間を豊かにする材料になる。

中高の勉強により鍛えられた計算力や思考力、記憶力などは、もちろん大学入試には役立ったし、勉強の方法も知ることになった。
ただそれだけではなく、今興味のある分野ややりたいことに向けてどのような努力をすればよいかを考えやすくなる気がする。
結果論に過ぎないが、「大人になったとき別に使わないし」というのは人生経験の少なすぎる子どもたちにとって自分の可能性を狭めるだけの感覚であったと思う。
しかし、物事を俯瞰的に見つめ、何も否定せず、自分の中に落とし込んでから判断するということは子どもにとっては難しい。うーん。


(4)勉強は自分のキャラを決める

勉強は、ある種自分のキャラを決めるものだと思う。生まれ持った得手不得手が勉強によって発見されていくと言ってもいいかもしれない。
私が人生で経験してきた勉強は、みなさんが知っている国数理社英+技能教科、そして軽音楽である。(居酒屋バイトで接客とか酒の作り方も研究しました)
前者は後者を極める際に間接的ではあるが、大いに役立ったと思っている。私が現在興味のある芸術(絵画など)は、これから勉強していこうと思う。

振り返ってみると、人生が進んでいくごとにその時々興味のある勉強をしているということになっている。そして齢20代前半、私のキャラとしては音楽、日本史、美味しいお酒という感じになっている。それに今興味のある絵を合わせると…
なんと文化的な人間なのだろうか。
やはり勉強は良い。
このまま興味のあることを勉強して、自分が完成したら、どんな豊かな人間になるのだろうか…。


勉強は自分を形作る、大層なものだ。
ただ年齢と共に活動力は落ちていく。

若いうちに能動的にいろいろやっとかなきゃ‼️

このnote書いてたら今日の勉強時間かなり減りました。

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