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「セカイ系」周辺を考えるための見取り図

アニメ作品を軸に、「セカイ系」周辺を考えるためのマップを作ってみた(あくまで「を考える」ことが主眼で、ここに挙がっている作品が即「セカイ系」と言いたいわけではないので注意してほしい)。Twitterに投稿したところ、少し反響があったので補足してみたいと思う。

まず、「プレセカイ系」として90年代末の3作品を置いた。『新世紀エヴァンゲリオン』『少女革命ウテナ』『serial experiments lain』である。

『エヴァ』について。この作品の本質は、碇シンジのオーバーフローする自意識と人類補完計画なる大文字の「世界」をどうにかしようとする陰謀との短絡などにあるのではなく、「死海文書」や「使徒」などの暗号に満ちた世界観にあると考える。何やら複雑で大きな世界観がありそうなのだが、全体像が把握できないという感覚に重きを置きたいのだ。また手法的な側面では、リソース不足による楽屋オチ……コンテや線画の段階のアニメーションを放送に乗せて「作品」と言い張っていいんだ、限られた素材のパッチワークで見せることで、かえって余白を想像させることができるんだ、というパラダイムシフトを起こしたことも重要である。

『ウテナ』は「自己を革命することは、世界を革命することである」というテーゼを打ち出した点で重要だ。舞台を学園というごく狭い範囲に限定し、それを大文字の「世界」のメタファーとする。その枠内に囚われた自分自身を解放するという目標と、「学園=世界」の壁を打ち破るという目標がイコールで結ばれる。また、『美少女戦士セーラームーン』シリーズの監督も務めた幾原邦彦は、アニメ作品におけるジェンダー表象の取り扱いについて極めて先鋭的な表現を続けてきた作家だ。近年のポップカルチャーにおけるキーワード、エンパワーメントと「セカイ系」がつながる視点を提供してくれるだろう。

そしてもうひとつ、「セカイ系」を考える上で重要だと思うのが『lain』を起点とする「インターネット系」である。『lain』の時点では物理ハードウェアに満たされた室内の様子と、アンダーグラウンドな都市伝説的感性との融合が見られた。90年代末といえば、「サイバースペース」の夢が無邪気に信じられていた時代である。現実のインターネットが社会インフラとして浸透するにつれ、所謂「セカイ系」の本流からは離れていくことになるが、そこで問われ続けている大文字の「世界」に対する距離感の問題は、「セカイ系」の変遷史を見ていく上で有用な補助線となってくれるだろう。

2002年に新海誠の『ほしのこえ』が公開される。この作品を「セカイ系」の起点と捉えてみたいのは、『エヴァ』『ウテナ』『lain』のすべての問題系を包含しているからだ。『エヴァ』からは情報の極端な省略と素材のコラージュ性を。『ウテナ』からは「世界って、携帯の電波が届く範囲なんだと思っていた」という台詞に象徴される「世界」の範囲の明瞭な定義を。そして『lain』からは携帯電話というガジェットに表象される、情報技術と「距離」の問題系を、それぞれ引き継いでいる。

『ほしのこえ』が備えていた上記3つの特性は個人制作のミニマムな作りだったがゆえに備わっていた面も大きいが、その後発展していく新海のテーマ性としては「ゆきて帰りし物語」であることが重要である。この形式自体はスタジオジブリ作品にも典型的に見られる古典的なものだが、それを現代劇をベースとして寓話的に描いた点が新海作品の新鮮さだったといえる。新海誠は今夏に行われた下北沢トリウッドでの特別上映の際zoomで登場し、観客の質問に答えた。私も質問させてもらい「『ほしのこえ』と『星を追う子ども』に共通して出てくる“アガルタ”というキーワードは何を表しているんですか」という問いを投げかけたのだが、それに対して「“アガルタ”は昔影響を受けた絵本に出てくる死の世界。せっかくフィクションの物語である以上、キャラクターには世界の果てのような場所、自分の作品の場合は死の世界なのだが、そういう場所まで一度行ってほしい。そうして何か大切なものを持ち帰り、現実を生きる糧にしてほしい」という旨のことを答えてくれた。

現実と重ね合わせの別様なる世界に旅立ち、何かしら人生の糧を持ち帰ってくるという構造が、学園生活などのミニマルな日常の中で起こるというのが00年代初頭に京都アニメーションがアニメ化した『涼宮ハルヒの憂鬱』や『AIR』をはじめとするKey原作の作品に見られる共通の特徴だ。これらの作品には「閉鎖空間」や「幻想世界」などの異世界が登場し、そこでの危機は日常での危機と表裏一体な性質を持つ。その物語的な意味は後に続く「日常系」のパラダイムから逆算すると「日常を異化することによって、日常の意味を読み替える、日常の閉塞感を突破する」ことにあると言えるだろう。「日常系」とはこの「読み替え」の主体が作品内の主人公ではなく、視聴者の側に移動したパラダイムである。写実的に描き込まれた作品内の風景の元となったロケ地に赴く「聖地巡礼」によって、現実を異化するのである。しかしこれは「巡礼」の名に表れている通りあくまで旅行という名の非日常なのであり、学園生活や日々の仕事といった卑近な現実の読み替えにはなっていない。新海が一貫して描いてきた、あるいはKey作品をアニメ化していた頃の京アニからは一歩後退したというのが私の見解である。

現在ブームとなっているセカイ系・日常系の近傍ジャンルとしてポストアポカリプス/ツーリズム+百合というジャンルがある。具体的な作品としては『けものフレンズ』『少女終末旅行』『宝石の国』『宇宙よりも遠い場所』『ゆるキャン△』などが挙げられる。年始に放送開始する『裏世界ピクニック』はSFの総本山、早川書房より刊行の小説が原作で、このジャンルの集大成的な作品になるだろう。これは日常系=聖地巡礼ブームに見られた視聴者のツーリズム自体を作品内に逆輸入したもので、必然としてその旅は聖地巡礼などというお気楽なものではなく、過酷をきわめる(南極、冬のソロキャンプ、そもそも人間が死滅したポストアポカリプス世界…)。百合=女性同士の濃密な関係の要素は生殖、次代への継承という垂直的な時間性が相対的に重視されていないことを示す。これらの作品群では水平方向の移動が強調され、移動の過程そのものがかけがえのない体験となる。その体験を元に異化すべき「日常」とのはっきりとした境界が設けられていない点で、新海誠〜京アニ作品的な「ゆきて帰りし物語」との差異が認められるだろう。

閑話休題。

『エヴァ』の暗号性という要素は「伝奇もの」という形で生存してきた。ライトノベル原作の『とある魔術の禁書目録』『灼眼のシャナ』といった作品では日本伝統的なモチーフが後退したこともあり、「現代学園異能」というジャンル名でも一時括られた。暗号性が「死海文書」のような偽書的モチーフから現代の路地の暗がりに潜むという形に移ったことと、新海作品や京アニ作品の出現によって「ゆきて帰りし物語」が卑近な学園生活の中で営まれるようになったことが軌を一にしていた事実は興味深い。これらの作品において路地の暗がりは平坦な日常を異化するものとしてではなく、そこに亀裂を入れるものとして機能する。00年代~10年代にかけてこのジャンルの中心にいたのはufotableによりアニメ化されたTYPE-MOON作品であり、『空の境界』における和の要素と食人鬼モチーフ、『Fate/Zero』の主題歌でソロデビューを飾ったLiSAなど、振り返れば社会現象と化した『鬼滅の刃』につながる要素を準備していたといえるだろう(『鬼滅』の舞台は現代ではなく大正時代だが)。

『ウテナ』を起点とする「自己=世界」の革命路線は「変身」をキーワードとして女児向けキッズアニメやアイドルアニメにおいて展開していくことなった。この2つのジャンルは『アイカツ』『プリパラ』などのシリーズによって直接的に重なっている。キッズアニメにおける「アイドル」のステージパフォーマンスはウテナが剣をとって戦うのと同じ意味合いを持ち、純粋に自己をエンパワーメントする意味合いが強い。しかし深夜系アイドルアニメにおいてはどうしても(金を払ってステージを見にくる「大人」の)観客の存在を完全に消し去ることはできず、『ウテナ』における学園=世界という箱庭感が成立しないという問題があった。必然、物語の比重も同じアイドル内での価値観の相違とそれにより生じるコミュニケーションの軋轢(とその解消)といったものが多くなる。アニメ作品ではないが、現実のアイドルシーンにおいて箱庭的世界=自己の壁を突破するという物語を展開しようとした結果、そうは言っても観客の応援がなければ成立しない、という現実との折り合いがつかずに瓦解してしまったのが、欅坂46というグループだったのだろう(ちなみに2018年のアニメ『ダーリン・イン・ザ・フランキス』の1つ目のEDは『エヴァ』副監督の鶴巻和哉が変名で手がけており、明からさまに同グループへのオマージュを捧げている)。なおこの点を突破しようとしている作品に、幾原邦彦作品『ユリ熊嵐』で副監督を務めた古川知宏による『少女☆歌劇レヴュースタァライト』がある。演劇人養成学校を舞台としたこの作品には舞台の外から好き勝手なことを言う「観客」という存在の露悪的なメタファーとして「キリン」というキャラクターが設定されており、一方で視聴者のことを「舞台創造科(作中においては大道具・衣装制作などを担当する裏方の生徒たち)」と公式が称するバランス感覚を見せている。声優陣自らが役柄を演じる2.5次元ミュージカルも同時に展開しており、2021年公開予定の完全新作劇場版においてどのような回収がなされるのか気になるところである。

最後に、「インターネット系」の変遷について。サイバースペースの夢は比較的早い内に破れ、00年代中盤〜後半にかけてはAR(拡張現実)的な想像力が中心になる(『電脳コイル』『東のエデン』など)。現実をテクノロジーの力で読み替えるというもので、時期的にも日常系/聖地巡礼のブームと軌を一にする。AR・SNS・ゲーミフィケーションを現実のガバナンスに取り入れた際のシミュレーションにまで踏み込んだ『ガッチャマン クラウズ』は極めて批評的な作品で、ここでAR系はひとつの達成を見る。一方、前後して『ソードアート・オンライン(SAO)』がアニメ化され、エンターテイメント面ではむしろVRのほうが活況となっていった。同作は10年代後半に一大ジャンルとなる「異世界転生もの」の始祖と位置づけられることも重要である。インターネット・バーチャルリアリティ的イメージは「異世界」……それ自体として自立した「もうひとつの現実」、もはや帰ってくることなど必要ない、固有の体験を提供するものになったのである。主要モチーフを現実世界におけるARゲームにコンバートして展開した『SAO』の劇場版『オーディナル・スケール』はAR的「読み替え」の想像力の可能性とその敗北を描いた寓話として位置づけられるだろう。テレビシリーズから引き続き監督を務めた伊藤智彦はこの映画を最後に『SAO』シリーズからは撤退。2019年のオリジナル作品『HELLO WORLD』では都市空間のアーカイブ、人工知能の実存といった新たなタームを織り交ぜつつ、新たな「読み替え」の想像力の展開に挑んでいる。

以上のような流れを踏まえて、年明けに公開される『シン・エヴァンゲリオン劇場版』がどのような物語を描くのか。楽しみに待ちたいと思う。

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