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どこまでが自己責任なのか?~「自己責任の時代」から考えてみた

ヤシャ・モンクの「自己責任の時代」の本から、どこからどこまで自己責任となるのか、ならないのか、また炎上ネタになりそうですけれども、考えてみたいと思います。

平時?の好況・不況時なら「自己責任」ついて論じることもできそうですけれども、自然災害、あとは人災?とも呼ばれるコロナ禍状況下における昨今の状況を鑑みますと「自己責任」レベルじゃどうにもならんという所が本音でしょう。

残念ですけれども、5体満足で元気な人は日ごろから自己メンテナンスを欠かさない、健康診断で要検査になったらまずは診察をうけるなどして、免疫力、抵抗力アップをして、極力医者の世話にならないように生きていくしかなさそうです。

信じられないかもしれませんども、昔は医者にかかるのはお金持ちと相場が決まっていて、かつ病気は自宅にある常備薬で対応するような時代もありました。今は医者にかかれば大丈夫という安心感に油断したのかもしれません。酷なようですけれども、最後は健康な人でかつ変化に耐えられた人が生き残るかもしれません。自然の法則は非常に残酷だと痛感させられます。

さて、「自己責任」とはどういった定義なのでしょうか。これほど、個人の主観に依存し、時代とともに意味が変容していく言葉も珍しいと思います。そして、責任という範囲の揺れ幅が大きい語句でもあると著者や訳者の解説でも述べられています。

大人になった子供が犯罪を犯したときに親は責任を負わねばならないのか?実際は相当バッシングされ、その場所に入られなくなると聞いていますし、子供が犯罪を犯しそうだから、子供に手をかけた親御さんもおられます。

また、私が生きてきた中で一番印象に残っている言葉が、50歳を超えた大人が「親が教えてくれなかったから、知らない」というセリフです。そのセリフを聞いたときは、どこまで人に責任おしつけんねん。とか思いましたけれども、実際にいそうですよね、親が教えてくれなかったと言って言い逃れしそうな大人。

これも「コーチングのすべて」で読んだ発達の段階を第4段階(「自己創造」)に到達するための社会体制がない影響なのか、はたまた核家族がそうさせたのかって気もします。祖父母がいればそれなりに、教えてもらえる機会が多少でもあると思うのですがどうでしょうか。

とにもかくにも、いかようにとらえることのできる「自己責任」。この言葉の名のもとに、懲罰的な責任になっている風潮に異議を唱えています。

この辺は自分の中でも矛盾を抱えていて、自分の選択の上で今の生き方をしているからこの状態でもあるわけですし、その選択をするべき過程(プロセス)もあるわけですから自分で責任を負わねばならないですけれども、どうしようもない時もあるわけですし、責任の所在って非常に難しいと痛感させられました。

理想論にはなってしまいますけれども、この本に記述されているように責任の所在を民主主義的に討議で決められるとよいのですが、最近は討議すら成り立たず喧嘩別れも多いので、どうしたものかなぁと頭を悩ます日々でもあります。そのうち頭はげそうですね。

スピード感は遅くはなりますけれども、討議で責任をどうするかちょっとずつでも話し合いをできるという環境に近づけていければと思います。

本日はここまで。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

それでは、また。

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