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vol.008 あの夢の、その先

林の中に独り。

さまよい歩き続けていると、突然景色が開けた。目の前には澄んだ湖が広がり、その中央にちいさな地蔵が佇む。湖の向こうには壮大な山が望み、その木々1本1本がキラキラと陽を揺らしている。

その光景を最後に目が覚めた。
琉球舞踊家の福島千枝さんが、14歳の頃だ。

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そのあまりの美しさと臨場感がずっと頭を離れず、ついには夢占い師に鑑定を依頼する。するとこの様な答えが返ってきた。

「湖はあなたの心。お地蔵さんが中央にいるという事は、あなたが救いを求めている事を表します。そして湖の向こうにある山の木々は周りの人々、つまり社会。あなたはまだ、社会に踏み込めずにいるようです。どんな形でもいい、あなたの好きな何かで山の中へ踏み込んでみてはいかがですか?」

人間不信に陥り、世間に心を閉ざしていた当時の千枝さんは「あんなに眩しく輝いていた木々が、人だなんて信じられない」と真に受けず、心の棚にしまい込んだ。

当時の千枝さんにとって唯一信じられたのは、音楽。特に海外のパンクやロックミュージックに夢中だったが、国内アーティストでは、沖縄のCoccoにも惹かれていた。

そんなCoccoが沖縄限定版CDを発売すると知り、心配する親をよそに大阪から沖縄へ1人で向かった。16歳の頃だった。初めて目にする空と海の美しさに圧倒され、瞬く間に沖縄の虜となった。

バイトに励んで旅費を貯め、同じ年に再び1人沖縄へ渡った。

本島北部の備瀬にある民宿を予約していたのだが、見知らぬ土地でのバス移動は容易でなく、予約の時間を大幅に遅れて到着。長旅から空腹状態の千枝さんは、食堂に着くやいなや大急ぎで夕食を頬張った。

するとカウンター越し、見るからに“島の漢”といった風貌のおじさんから「行儀が悪いよ。一つ一つを丁寧に食べなさい」と注意を受ける。

当時「特に大人が嫌いだった」千枝さんは、それをふざけた態度であしらった。
すると「人としての礼儀がなっていない」と、到着が遅くなるのに連絡をしなかった事や、挨拶ができていない事に対してなど、ガツンと叱りつけた。

「私はなんでこんなに歪んでしまったんやろう」。

急に恥ずかしさや、自分への悔しさが溢れ、涙が止まらなくなった。

地元の方々も集い、和やかだった食堂に不穏な空気が流れる。泣きながら食べ続けていると、おじさんは美しくカットしたマンゴーをそっと差し入れてくれた。

食事を終えても涙は止まらず、裸足のまま民宿を飛び出し、1人フクギの並木道を歩いた。するとフクギの1本1本が見守ってくれている様な気がして、怖かったはずの真っ暗な夜道が不思議とあたたかく感じた。

並木道抜けると、海が広がっていた。

チャプンと素足を浸すと、涙はスッとひき、頭がクリアになった。

その足で民宿へ引き返し
「さっきはすいませんでした」
とおじさんに頭を下げた。
「いいね!」
とおじさんは笑った。

初めて真正面から自分を叱ってくれたその人は、ペンション備瀬崎のオーナー「クマさん」。この出来事があってから、年に一度はクマさんのもとを訪ねるようになっていた。

19歳の頃、この民宿で居合わせた方から琉球舞踊の先生を紹介された。その先生は大阪でも道場を開いているという事で、「地元にいながら沖縄を感じられるなら、やってみようかな」と、軽い気持ちで入門した。

「私は飽き性やから、たぶん続かへんやろな」と思いつつも、翌年開催される新人コンクールに向けて沖縄に住み込み、真夜中まで稽古漬けの毎日を半年間を過ごすことになった。

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そんな日々は実り、みごと新人賞を受賞。大阪へ戻る前、ユタ(沖縄の巫女)に「あなたの前世はウミナイビ(琉球のお姫様)ですよ」と言われ、沖縄県立芸術大学への進学を決意。

みごと琉球舞踊組踊コースに合格し、22歳で沖縄移住を果たした。

それから大学院を修了するまでの7年間は、琉球舞踊一筋の生活。琉舞は幼少期から習い始める人が多く、19歳から始めた千枝さんとの差は歴然だった。悔しくて、稽古に明け暮れた。

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琉球舞踊は神に捧げる祈りの表現(歌や踊り)から生まれたが、王朝時代は中国からの使者を持てなす宮廷芸能として発展を遂げ、首里城などで披露されていたそうだ。

歴史深い伝統芸能の世界に青春を捧げてきた千枝さんだったが、「輪の中で調和を保つのが上手くない」という自身の特性や様々な事情を踏まえ、大学を出て間もなく、長年身を置いた流派を去った。

それは僕がProotsを開業したのと、ちょうど同じ頃だ。

「月桃の香りが好きなんです」と、何度か月桃(沖縄に自生するショウガ科の植物)エキスのルームスプレーを買い求めて来られた関西なまりの女性こそ、千枝さんだった。

そんなご縁から、彼女がパーソナリティを務めるラジオ番組にゲスト出演させて頂いた事がある。その時は気付きもしなかったが、千枝さんは孤独の中をもがいていたのだ。

琉球舞踊家が流派から外れるという事は、誰からも守られなくなり、全ての仕事を失うという事。「このまま一生舞台で踊れなくなるかもしれない」不安や危機感と隣り合わせの毎日だった。

首里城の管理センターに3年ほど勤務したが、舞台への気持ちは膨らむばかり。退職後はフリーランスとして地域公演への営業や、ラジオ・SNSを通しての情報発信など、その身ひとつで世に働きかけた。

すると徐々に理解を示したり、興味を持ってくれる人が現れ、雑誌やTV出演などのチャンスを掴むようになった。

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そんな数少ない縁を大切にしているうちに、世界遺産・中城城跡の花火イベントでは安室奈美恵さんの楽曲に合わせた舞踊、アニメソング界で広く認知されるbless4のライブステージでは振付演舞を担当するなど、伝統芸能の枠にとらわれない活動へと広がってゆく。

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芸大生時代から常連だという、首里の沖縄料理店「富久屋」で、そんなこれまでを教えてくれた。インタビュー中、店を出入りされる方々が千枝さんに気付いて手を振ったり、挨拶する場面に何度も出くわした。

そして「あら、あんた来てたの」と富久屋オーナーの米子さんも登場。隣合わせて、互いの近況報告が始まった。

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「ごはんちゃんと食べられてるの?」
「最近忙しくてお弁当ばかりで… 野菜不足なんです」

ちょっと待っててよ、と台所へ向かう米子さん。これを持っていきなさいと、青パパイヤを細切りにしたパパイヤシリシリーを持たせた。まるで家族のようにその身をおもう光景が、20年前にマンゴーを切ってくれたクマさんと重なる。

お店の玄関には、千枝さんが実現に向けて奮闘中のイベントポスターが飾られていた。

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フリーの琉球舞踊家として、誰も踏み込んだ事のない壮大な山の中を歩き続ける千枝さん。取り囲む木々は光を反射し、あたたかく道を照らしている。

そう、14歳で見た夢の、あの山の中だ。

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いま歩いているこの道は、いつかきっと誰かの夢になる。
その時が来たら千枝さんは心のほとりに立ち、そっと手を差し伸べるのだ。

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※千枝さんが企画・プロデュースに携わるイベント「琉球乙女は恋をする〜恋フェス〜」は2/28(日)に映像配信があります。詳細は以下URLからご確認ください。


※千枝さんが出演される映像作品・琉球舞踊「貫花」



【萩原 悠 プロフィール】
1984年生まれ、兵庫出身。京都で暮らした学生時代、バックパッカーとしてインドやネパール・東南アジアを巡る中、訪れた宮古島でその魅力に奪われ、沖縄文化にまつわる卒業論文を制作。一度は企業に就職するも、沖縄へのおもいを断ち切れず、2015年に本島浦添市に「Proots」を開業。県内つくり手によるよるモノを通して、この島の魅力を発信している。


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