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15年英語を話し続けていても、英語で「考える」ことはできても「感じる」ことはできないなという話

海外に住み始め、今年で15年になる。

大学も就職も海外を選び、英語で勉強し、仕事をする環境に身をおいた結果、英語は「ペラペラ」になった。15年前の私は、英語をツールとして身に付けたいという思いがあったから、”英語で問題なく伝えられる・理解できる”今の状況は、願ったりかなったりだ(何より英語が話せるってあらゆる面で便利)


英語を話す人と結婚し、アメリカの会社に勤め、ここ3年は職場でも家でも終始英語を話し、英文記事を読み、洋楽を聴き、気づけば1ヶ月以上日本語を全く話していないということもよくあった。


客観的に見れば、ただ話す言語が日本語から英語優位に変わっただけだ。


けれど自分の中で、感情と言葉がどんどん乖離していく感覚があった。自分の言ったことに感情が伴っていない、言葉と感情がつながっていない感覚が。


ある日、長いこと手に取っていなかった吉本ばななさんの本を手に取り、彼女の文章を読んだ時、悲しいとも、悔しいとも違う、心の底から自分の中で表現しきれていなかった感情が溢れ、涙が流れ落ちてきたときに確信した。

(私の感情とつながっているのはやっぱり日本語だ)と。


これはあくまで私自身の体感で、きっと全てのバイリンガルの人が私と同じ体験をしているわけではないと思う。特に最初から英語と日本語環境で育った人は、きっとどちらの言語でも自分の心理と結びつくメカニズムがあるのかもしれない。

けれど高校卒業時まで日本で生まれ育った後天的バイリンガルの私にとって、英語はやっぱり”ツール”止まりであり、自分の感情と密に結びついている言語ではないんだと最近改めて感じている。英語と感情の間には、なにかしら薄い壁のようなものがあって(それは思考や、知識なのかもしれない)、直接結びついてはいない。


村上春樹さんは以前「不思議に、日本語よりは英語で講演した方が落ち着くんです。(中略)たぶん外国語だと他人事みたいになって、そのぶん気楽なのかもしれません。」村上さんのところで答えていらしたけれど、やはり自我の発達以前から使っている言語と、自我が発達した後に習得した言語では、脳の使い方は違う気がする。英語で話すときは、まるで自分の中に第三者がいるみたいなのだ。


別に何の科学的根拠があるわけでもない、ただの私の体験。

でも、日本語を使って自分の心と結びつくことがどれだけ自分にとって必要かを、私は身を持って知っている。

だから、頭じゃなく、自分の感情に寄り添った文をこれからも書いていこうと思う。きっと私にとって、日本語で感情を表現することは、失ったいろんな感覚を取り戻すために大事なことである気がするから。


言語と思考、感情の繋がりって本当に奥が深いなぁ。


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