僕の使命
ガチャ、バタバタバタッ…
妻を見送って30分が過ぎた頃、今まで静かだったこの部屋に、何やら物音が聞こえてきた。
泣きつかれて放心状態だった僕は、慌てて意識を取り戻す。
ガラガラガラ
入り口の扉が開き、先生と看護士、そしてストレッチャーの上には、力なく横たわる妻の姿があった。
その衝撃的な姿に驚き、すぐに妻に駆け寄ろうとする僕に、先生が『ご主人は座ったままで結構です』と声をかけて制する。
『あっ…はい!』
明らかに意識のない妻の姿に、僕は不安を感じながら座っていると、先生と看護士さんが慣れた様子で、ストレッチャーから病室のベッドへと妻を移動させる。
『いっちにの、さん!』
そんな掛け声を聞きながら『医療系テレビドラマのようだ…』と目を白黒させている僕に、先生は話しかけてきた。
『無事に処置は終わりました。しかし、途中麻酔が中々効かなかったので、計4回ほど追加で麻酔を投入しました』
たぶん、こんな内容のことを伝えられた気がする。
正直なところ、僕は動揺していたせいもあり、この時の詳しい説明はしっかりと覚えていない。
というのも今僕の目の前には、看護士さんに声をかけられて目覚め、突然涙を流し、苦しそうにうめき声をあげている妻の姿があるからだ。
いつも我慢強く、物事を客観的に捉え、冷静ないつもの僕が知る妻の姿はそこには無い。
今目の前にいるのは、最愛の我が子を失ったことを本能的に理解し、悲しみにうちひしがれている、1人の母親の姿だった。
『旦那さんのお顔見せてあげてください、きっと安心しますので…。』
そう看護士さんに言われた僕は、ベッドに横たわる妻に寄り添い、涙を流しながら必死に声をかけた。
『本当によく頑張ったね、ありがとう、おこちゃんは無事におそらに帰ったよ、落ち着いて…』
こんなことを声かけていたのだろうけど、正直このときのこともあまり覚えてはいない。
しかし、それほど必死になって手術という大役を立派にやり遂げた妻を、僕は涙ながらに労った。
『また後ほど診察がありますので、それまでゆっくりと休んでくださいね』
先生と看護士さんはそう言って部屋から出て行く。
僕はこのとき、『個室の病室で良かった…』と本当に心から思った。
というのもこの時、僕の妻は麻酔の作用で半覚醒状態になっており、普段抑えられていた感情が噴き出して、少し『パニック状態』になっていたからだ。
暴れる等の症状が現れなかったのは幸いたったが、目覚めては号泣し、自分を責めたり、悲しんだり、感謝を伝えたり、そして突然死んだように眠る。
そんなことが10数回も続いたのだ。
僕も最初のうちは『たくさんつらい思いをしたからね…』と、妻の気が済むまで泣かせてあげようと思っていたが、途中から『これはパニック状態になっているんじゃないか…?』という不安が頭をよぎった。
後に妻から聞いた話によると、泣いていたことは覚えていたが、その時言った内容や、なぜ涙が出てくるのかについては、全く覚えていなかったらしい。
そんなことが1時間半くらい続き、ようやく妻の意識が少しずつ戻ってきた。
しかしそれと同時に、今度は脱力感と気持ち悪さが酷くなり、結局しばらくの間、妻はベッドから身を起こせない状態だった。
『処置が終わったら、どこかでご飯でも食べて帰ろうか』
病院へ向かう途中、そんなことを話し合っていたが、どうやらそんな楽観的な状況ではない。
妻の右腕が時折痙攣したりする姿を見て、僕は思わず病室に設置されていたナースコールをつなぐ。
『おそらく麻酔の効果が抜けていないので、もう少し安静にしてましょう』
どうやら妻は平静を装ってはいたが、内心相当な強い感情を押し殺していたらしい。
理性というブレーキで心を抑えていたが、その『抑え』が麻酔で外されたときに、手術中に再び興奮状態になってしまったため、強めの麻酔が追加投入されたのではないかと思う。
ここで1つ問題だったのが、この日は土曜日だったので、ここの病院が12時までしかいることができないことだ。
あいにく、義父は出掛けてしまっている日だったので、実家に頼ることもできない。
僕が、妻を家に送り届けないといけないんだ。
手術という大仕事をやり遂げ、弱っている妻を支えるのは、僕の使命だ。
『今、自分がやらねば』
そんな使命感から、僕は急いでスマホで周辺の情報を調べた。
ここはとても良い病院だが、唯一デメリットがあった。
それはシンプルに『家から遠い』ということだ。
タクシーも考えたが、ここからではいくらかかるか分からない。
そんなときネットでレンタカーの広告を発見した。
僕らは家に車を持っていないので、レンタカーをたびたび利用している。
これならスムーズの借りることができそうだ!
そんな考えから、勢いで予約をする。
『これなら妻を車で家まで連れて帰ることができる…!』
そして連絡のついた妻のお母さんが、様子を見に家まで来てくれるとも言ってくれた。
『よし、これならなんとかなりそうだ』
エコー室に看護士さんと一緒に弱っている妻を連れて、診察室で先生の話を聞く。
やはり麻酔を多く使ったことと、体質的に気分が悪くなりやすいことが影響を与えたらしい。
ただ『時間の経過と共に良くなる』ということ、そして『何かあったらすぐに連絡をして大丈夫です』と言ってもらえて、僕は安心することができた。
妻を寝かし、僕はすぐに手配したレンタカーを駅前まで取りに行く。
慣れない町だが、スマホの地図を見ながら、急いでお店に走る。
事前に調べていたことが幸いし、分かりづらいエレベーターを降りて、地下のレンタカー屋さんで車借りる。
落ち着け、ここで僕が事故を起こしてしまっては意味がない。
そうやって自分に言い聞かせ、心を静めながら、妻が待つ病院へと僕はレンタカーを走らせる。
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