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優しいってなんだろう。

デリバリーフード系は最初の1回しか使いません。

こんちゃ!
影山優佳です!

僕は大体1年くらい前にnoteを始めました。
noteを始めてからそれまで目を背けていた自分の負の部分に向き合えるようになった気がします。
僕がこれまで過ごしてきた環境は、自分の負の部分に向き合うには眩しすぎる環境でした。
僕みたいに捻くれた人間は多分いなかったと思います。
しかし、noteを書いていく中で自分と似たような考え方をしている人が世の中にはたくさんいることを知り、徐々に負の部分に向き合えるようになってきました。

てことで、今回は僕の捻くれた考え方の話です。

僕は、ごくたまに「優しいね」と言われることがあります。いわゆる褒め言葉に分類されるものですね。
もちろん僕もそれを褒め言葉だと認識しているので言われると嬉しくなります。
まあ、「優しい」という言葉は特に褒めるところがない人によく使われるというのもよく聞きますが、あまり深く考えるのはやめましょうか。

ところで皆さんはどういった場面で「優しい」と感じますか?
悩んでいる人の相談に乗ってあげるとか、課題を手伝ってあげるとか、人によって様々だと思います。
恐らく、共通して言えるのは「相手を思いやって行動すること」に「優しい」と感じることです。
「優しい」=「相手を思いやって行動できる」という式が成立します。

ここからは僕の話です。
以前「優しいね」と言われたときは何も考えず褒められたと感じていました。

しかし、最近ふとそのことを思い出して僕は妙な違和感を感じました。
恐らくその人に「僕の言動」が「相手を思いやった行動」と認識されたために「優しい」と言われたのでしょう。
では、僕の言動が相手を100%思いやってのものだったのか、と言われるとそうと言い切れません。
僕は自己肯定感が低い人間です。
そんな僕みたいな人間は「自分で自分のことを評価してあげること」が出来ません。
故に他者から評価されたがるのです。他者からの評価がそのまま自己評価になるからです。
相手からすれば僕の言動は「相手を思いやったもの」だったのでしょう。
しかし、僕からすればその言動は真に他者を思いやったものではなく「他者からこの人は優しい人だと思われたい」からなのです。

なんかおかしいですよね。
「優しい」=「相手を思いやって行動できる」という式が成り立つのなら、
「自分のための行動」≠「優しい」とも言えます。
自分のために行動する人って、度が過ぎれば「自己中」とも言われますよね。
「自分のために行動する」というのは「優しい」という言葉とは全く関係がありません。

僕が感じた違和感は「自分のための言動」が「他者を思いやっての言動」と受け取られ、「優しい」と評価されたことでした。

これって本当に「優しい」って言えるのかなと自問自答しています。
他者を思いやっての言動も「優しい自分」という評価を求めるということが根底にあるのだと考えると、捻くれた自分にうんざりします。

まあ、この違和感の正体を言語化出来たのは良かったのですが。

最近、僕は割り切った考えをするようになりました。
まず「自分からすすんで優しい人になっていればいつか本当に優しい人になれる」ということ。嘘も突き通せば真になるって感じですね。
そしてもうひとつが「自分のことを思っての行動でも相手が満足してくれたらそれでいい」ということ。やらない善よりやる偽善って言葉がぴったりです。

自己評価が低く、自己肯定が出来ないのに、この事象に関してはゴリッゴリの自己肯定をしているのは素晴らしい皮肉ですね。

ばいころまる~


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