遙かなるパライソ(2020.5.11)

 パライソは遠くなりにけり。刀ミュこの春の新作公演がとうとう東京凱旋公演と千秋楽ライブビューイング、配信ともに中止、円盤も発売中止となった。再び演じられるのは来年の秋……。この報せを目にしたのは仕事上がりの駐車場で、私は半時間ほど運転席に斜めに腰掛けたまま動けなかった。
 予想はついたことである。これだけの疫禍の只中だ。贅沢だから行えないのではない。行わないことこそが感染を拡大させない死者を増やさない為の行動なのだ。新聞に掲載された日本地図の中、赤や黄色に塗られた東京都を見れば今月末がどれだけ非現実的なことかは理解できる。
 それでも動けなかった。この感情が悲しみなのか自分でも分からない。虚ろ。望みの灯が目の前で消えてしまい立ち竦む暗闇。

 けれど、この全てが中止という事態、代替案があるのではないかと思われた配信も含め、東京凱旋公演と千秋楽に関わる全て中止となったということが好ましく思われる。
 他作品で見られた模索の姿勢も有り難いものだ。しかし潔いほど、その潔さが打ちつける寒風か波のように冷たく厳しく感じられるほどのこの決定は同時に、やるならば真正面から取り組む舞台を真正面から観客に見てもらってこそこの作品は成立するのだ、と言われているようで力強く感じた。勝手な思い込みだろうかとも思ったが、御笠ノ忠次さんのツイートを拝読するだにそれほどズレた受け取り方ではない気がする。
 同時に私は心密かに、だが個人的には大きなものとして、肯定感をもらったのだった。
 舞台は観客がいてこそ完成する。あなたがたが劇場に足を運び目の前で見てくれることが、舞台を完成させる重要な要素なのだ、と言われたのだと思った。

 舞台は生き物だ。比喩表現として、それは以前から言われてきたことと思う。私も感覚的にはそうだろうと思っていたが、誰も居ない客席を前に演じる方法ではなく、敢えて痛みの大きい全公演中止が選ばれたことで、舞台、私たちが座った客席、誰も居ない客席を想像することでもっと実感的に、生き物だと思えた。舞台は呼吸する生物だ。役者の呼吸、支える裏方の呼吸、そして息を飲み、吐息をつく観客の呼吸によって息づく生き物だと。全ての舞台は毎回新しい。それは理想を述べたものではなく、確かに舞台は毎回開幕ベルと共に目覚め、違う呼吸によってその時だけのものが生まれる生きた世界なのだ。
 そこに私たちが必要だという。全公演中止はそのことを強く訴えかけるように感じて、大切にされている実感を黙って噛み締めた。

 自分は視野が狭いし浅慮である。上記も、他の人々から見れば思い込みによる思考の偏りが激しく見えるのかもしれない。しかし私にはそれが分からない。他者の目を現在持ち得ないからだ。早朝4時なのだ。さっきから何度か眠りこけながらこれを打っている。そうでなくても経験の浅さ、知識の薄さ、自分以外の自立した思考への想像力の欠如により愚かしい文章を打っているのかもしれないけれど、私は、悲しいけれど思うのです、先人たちの言い伝えてきたように己のことを思うのです。愚か者は幸福であると。
 たとえ幻想だったとしても大事にされたという思いを抱いて来年の秋まで踏破できるなら、パライソに辿り着いた私は振り返って笑顔で手を振ってくれるだろうと私は期待しているのだ。

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