今日を振り返り、虹を溶かす。

6/23(金)の日記が消えていた。そのことに気がついたのは、1年分の日記帳を読み返していた12/28(木)だった。6/23のスペースは確かに存在していた。6/22の3行の記録と、6/24の6行の記録の間が、たしかな空白になっている。行にしておよそ50くらい。
私はそこに何を記録したのだろうか。膨大な記録である。しかし、記憶をたどってみても考えは空回りを続けるばかりで、実像をうまく掴めなかった。午睡の夢を思い出している時のような。それは大事な部分だけがすとんと頭の中から抜け落ちていて、消しゴムの跡すらない。

6/22(木)
低気圧を、低気圧たらしめているものはなんだろう。頭痛かもしれない。フランス語のテキストにシミがあった。明日は虹を溶かす。



6/24(土)
キリンの首を見に行った。彼の首の毛を細かく見つめると、トイプードルの毛を短くしたみたいだった。ごわついている。ベージュと茶色の境目がはっきりしている。長い首。彼らはこれを手に入れるために、どれほどの歳月をかけたのだろうか。


虹を溶かすというのは、何かの暗喩だろうか?私は参っていたのかもしれない。低気圧と生理が同時にやってきて、突飛な言葉でそれを誤魔化したのだろう。私は時々、そういうことをしてしまう。
窓の外を見ると、分厚い雲が街全体を覆っているのがわかる。私は石油ストーブのスイッチを入れて、書き留めた膨大な量のノートをビニール紐で縛り上げた。そこにはシミのついたフランス語のテキストと、もちろん6/23の記録が欠落した日記帳も含まれている。


6/23
その日は朝からじっとりとした雨が降っていた。コーヒーのシミがついたフランス語のテキストとノートを、リュックサックに入れて外へ出た。
肌寒く、しっとりとした空気。ライムグリーンのアウターのファスナーをあげる。私はふと、天野清二という男の子を思い出した。どこにもいないはずの記憶。金星あたりを彷徨っている、放逐の牛。

彼はいつの日か虹を溶かすんだと言ったけれど、私はそんなことができるとは思わなかった。まるで大学の開放を訴える人たちみたいに。彼らはもったりとした甘い夢を見ている。

大学の周りには大きな壁が立てられていた。東京の大学で銃乱射事件が起きたのは、3年前の8月である。私が大学に入ってから、あちこちの大学で壁が建ち始め、私の入学した大学もその流れにただ従っていた。
専門家たちの間では、「大学は開かれた学問の場でなければならない」という問題提起があったが、ここにいる3000人の中で、開かれた学問について真剣に考えている人なんていない。もちろん教員も生徒も。
彼らは常に他人より高い位置にいることを求めているだけだった。自分はいかに素晴らしく、どれほどの実績を残したか。そこに重点が置かれる。来るべき就職活動という選別作業のために。あるいは自分自身の出世のために。問題は位置エネルギーなのだ。
だから彼らは首を伸ばし続けなければならなかった。そうしなければ、より高い位置の実を貪るのは、自分以外の誰かということになる。

3年の歳月で、その壁は私の背丈を超えて、ついぞ3メートルほどになった。1年と2年の最初までは、まだその壁から外を覗くことができた。年を経ると共に、だんだんとその壁は私の目線を超えていった。それに合わせて私の首が伸びるなんて、都合のいい話はどこにもなかった。

門にはいつものように屈強な歩哨が立っていた。中に入るにはIDカードを専用の機械に通さなければならない。私たちはそれを無くすわけにはいかなかった。再発行に時間がかかるし、何より3000文字の報告書(反省文?)を書かなければならない。
そんなわけで私たちは、IDカードと通学定期券を常に大事そうに持ち歩く必要があった。私は最初、そんなものは下らない、エイプリルフールのジョークみたいなものだと確信していた。壁やIDカードが、一体何を守ってくれるというのか。しかし、高さに囚われた人たちは真面目にそれに従った。彼らは3年間で、それが当たり前のことであるかのように振る舞うことを躾けられたのだ。

「君、IDカードを無くすのは何回目だね?」頭頂部の禿げ上がった、皺だらけの男がそう言った。額からは昨日食べたであろう揚げ物の油が染み出している。

「反省文は12000字書きましたよ」私は答えた。

「12000字もあれば、卒業論文がかけてしまうな」彼はため息をついた。ポジション・ジョーク。つまらない人間はいつもこれをやる。立場を利用したつまらないジョークのことを、私はそう呼んでいた。

「兎に角、次これを無くせば退学処分だ。いいね?」彼は私の目をじっとりと見て言った。

「わかっています。大事にしますよ」私はホチキス留めされた3000字の反省文を渡す代わりに、その虹色のカードを受け取った。相変わらず、センスのかけらもない。野暮ったいカードだ。無くすなという方がおかしい。

私はフランス語の授業を適当に聞き流し、帰路についた。途中でゴミ箱に虹色のカードを捨てるのも忘れなかった。
中庭では「大学開放」と書かれた看板を持って、デモを行う学生がいた。高い壁の中でそれをやるのは滑稽だ。何か巨大なものに包まれていなければ、自分の意見も言えない。いや、自分の意見ですらないかもしれない。他人の言葉をそのまま流用しただけの、空疎で意味のない言葉。軽率な音楽。そして似通った格好。何かの喜劇を上映しているのかと思った。
彼らの目はあの時の天野清二のように爛々としている。しかし、天野清二とは根本的な何かが違っていた。プラカードを持っている奴らの力の源が、学校教育という抑圧から来ているとすれば、天野清二の力の源は、もっと根源的なものから湧き出ていたように感じる。
私がもしこの人たちを撃ち殺したとしても、空っぽの頭から飛び出るのは脳髄以外の何かだ。例えばそう、虹とか。

天野清二は、虚言癖だった。自己承認欲求が誰よりも強い。小学校には1人くらいそういう児童がいるが、彼は一線を画していた。クラスの誰もが一度は彼の嘘を信じていたからだ。私だって一度は信じた。彼のつく嘘は真実を妙実に織り交ぜていて、見抜くのに時間がかかった。
しかしあの時、彼は彼らしくなかった。現実的でなく、突飛な嘘。虹を溶かすという嘘。彼は虹が出た放課後に、クラス全員を屋上へ連れ出してそれを実演しようとした。しかし、そんなことはできるはずもなかった。だいいち、虹が溶けるとはどういう意味だったのだろうか。どの状態になれば成功なのかも分からないことを、なぜかその時全員が期待していた。

虹が溶けないことを確認すると、私たちは突然現実に引き戻され、彼を叱責し始めた。堰き止められていたエネルギーの放出とでも言おうか。彼はなぜか満足そうな顔でそれを受け止めていた。もしかすると、大衆を連れ出し、存在しないものを期待させてから急に現実に引き戻す。という一連の流れのことを言っていたのかもしれない。一種の洗脳。私たちの脳内に虹を架け、それを脳の中に溶かす。空っぽの頭には、脳髄ではなく虹が詰まってゆく。
そうであれば、彼は実際に虹を溶かしてみせたということになるし、彼は真実を述べたことにもなる。そして、彼はその一件依頼スパリと嘘をつくことを辞めていた。そこまで考えて、私は背筋が寒くなる気持ちがした。

そんな記憶。つまるところ、もしもあの時、天野清二の頭を割ったとすれば、そこからは脳髄が飛び出すということだ。

もう大学に行くこともないし、明日からは何をしよう。キリンの首でも見に行くのがいいかもしれない。

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