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粒入り缶スープに、ものの考え方を学ぶ

職場の自販機に「粒入りコーンポタージュスープ」が追加されていた。ああ、もうそういう時期かと思いながら購入する。

私は、缶入りスープは好きなので、冬になるとよく買っているが、実はスープの中でも「粒入り缶スープ」、中にコーンの粒が入っているものは、少し苦手である。
別に粒が嫌いというわけではない、むしろ大好きだ。だからこそ困るのだ。

困るのは、この粒を缶から出さないと食べられないことだ。
食べようとすると、スープと一緒に流さないといけない、でもたまに、缶の縁に引っかかってしまう。ならば、飲む前に缶を手でクルクルと回してかき混ぜてから、一気にスープを口の中に流し込む。よしこれで流れ…1粒残って悔しい思いをする。
などと色々と考えていると、気がついたら「食べること」に集中したおかげで、スープを味わっていないことに気付く、それが毎度のことである。

じゃあ、粒を気にしなければいい、粒入りを選ばなければいい、そもそも缶で買わなければいい、それが合理的かつ正論だ。それが分かっていながら、また「粒入り缶スープ」を買って同じ苦悩を味わう、学習していないのだろう。

そんな粒入り缶スープは、私にとって、

何かに気を取られるあまり、本来の目的を忘れてしまう

ものなのだ。

目的を「見失う」もしくは「だけになる」

考えてみれば、この「本来の目的を忘れること」は、別にスープに限らない。例えば、私がよく書いている「ゲームレビュー」でも。

このゲームは面白い。何が面白いかって、スピードが速い、もの凄い勢いでステージが展開する、次々と起こる演出に圧倒される、それから…、と書いて、実は最初に「これはどういうゲーム?アクション?STG?」など、ゲームの概要を書いていない
また「前作である○○に比べて大きく改善されている、それは…」「デベロッパーが製作した○○らしく、もの凄い迫力のゲームだ」と書いて、「前作ってどんなゲーム?そもそもどういうシリーズ?」など、「過去に比べて」と書いているのに過去の話が完全に抜けている
自分の思いを伝えたいという気持ちばかりが先行して基本を忘れると、読む側は導入部から置いてけぼりになるということ。

でもレビューにおけるそれは、缶スープと違う。
缶スープは、何かに気を取らて本来の目的を忘れる、つまり「目的を見失う」こと。レビューは、伝えたいという目的ばかり先行して基本を忘れる、つまり「目的だけになってしまう」こと
私にとって、粒入り缶スープとゲームレビューは真逆の存在でありながら「目的を果たせていない」という意味では共通するものとなる。

目的を果たすには

目の前のものだけを見ていると、いつの間にか本来の目的を見失ってしまう。楽しむべきものも楽しめなくなる、味わうべきものを味わえなくなる。そもそも自分は何のために行動しているのか?行動するためにはまずどうするべきか?を考えるべきなのだろう。そうすれば、スープを味わって飲むことができる、ゲームの魅力をレビューで伝えることができると思う。

1本の缶入りスープだけで、そこまで考え直してしまうものか、などと思うわけだが、そんな私は、またスープの缶をクルクルと回しながら飲むのだろう。
結局、学習していない。

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