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ネフリ史上最も価値ある映画?/ 『ロングデイズ・ジャーニー』

こんにちは。
ゴダールについての記事を投稿した2日に後にゴダールの訃報を聞き、なんとも言えない悲しさに包まれている今日この頃です。

なんだか一つの時代が終わったような、何かに幕が下ろされたような、そんなような感覚がするのは私だけでしょうか?




話は変わりますが本題です。
私周囲の世論的に "Netflix史上最も価値のある映画" と名高い作品が2つあります。

中国の新星、ビー・ガン監督の『凱里ブルース』と『ロングデイズ・ジャーニー この世の果てに』です。

大学で受けている表象文化の講義の教授も、バーで出会ったフランス人映画関係者も、友人の中国人シネフィルも皆口を揃えて、「ネフリはビー・ガンを観るためにある。」そう言います。

ということで、今回はビー・ガンの2018年の作品、『ロングデイズ・ジャーニー この世の果てに』について綴りたいと思います。




ビー・ガンは詩人だから…。
そう聞かされていましたが、紛れも無い事実でした。

私自身、「夢」という言葉の持つ複数の概念は持論の哲学思想の最たるキーであり、生の根源だと思っています。

夢を実在としたとき、世界はこれほどまで調和を魅せ、落ちるところに落ち着く。

そこに林檎の咀嚼音があると尚良い、
と言うことをビー・ガンから教わりました。


この咀嚼音の有無とは、夢という所在地と、夢から過去連想しているという所在地、その瞬間に主人公がある場所を指し示していると考えます。

歩く男の背中を追ったシーンでは、どんどんその背中が離れていくのに対し、彼が齧る林檎の咀嚼音とは音量を下げることなく響き渡り続ける。

一方でその後、男と女のクローズアップにも関わらず林檎の咀嚼音がほとんど聞こえてこないシーンが挿入されている。


『ロングデイズ・ジャーニー』において、注目すべきミザンセンが林檎であるのは間違いないですが、キーであるのは林檎ではなく、"林檎の咀嚼音"です。

作品の中で男が生きる "現実" の世界を "ここ" だとしたとき、"夢" の中の世界は "ここ" からひとつ向こうの世界となります。

林檎の咀嚼音が私たち観客の聴覚に語りかけてくるとき、物語中の男の意識とは、 "ここ" からひとつ向こうの "夢" の世界から、さらにもうひとつ向こうの世界に所在しています。つまり、 "ここ" からふたつ向こうの世界です。

本作は、林檎の咀嚼音を境とした、時間的な奥行きのある作品であることが分かります。

夢と時間と記憶が交錯する一人の男の「意識」を描いたこの作品は、私たちには捉えきれないそれらの事象を軽やかに追求しているように思いました。



男と女が空を飛ぶシークエンスは、彼らの一人称のカメラで風景を描写し、そこにヴォイスオーヴァーするという、極めて美しい構図だった。

私たちを掴んだまま離さず、空を飛んだビー・ガンのこの手法に涙が出ました。
きっと、一生忘れられないと思います。




ビー・ガン監督の2作品は、9月いっぱいでNetflixでの配信が終了するようです。

まだご覧になられていない方がいらっしゃいましたら、必ずやご覧ください。「絶対にあなたは観て良かったと思う」に、林檎100個かけたいと思います。

ありがとうございました。

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