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アニメになった児童文学から見えてくる世界<12>:ロードムービーの魅力

1975年より毎年放映されていた、アニメ世界名作劇場は、1996-1997年の「家なき子レミ」を最後の作品として一時中断して、十年の空白期間を置いて、2007年に「少女コゼット・レミゼラブル」において再開。

しかしながら、再開後第三作目の「赤毛のアン」の前日譚である「こんにちはアン」をもって、アニメ作品としては異例の長さの二十六年に亘った長い歴史を終えました。

日本経済が活性化に向かえば、世界名作劇場を復活させようというスポンサーも現れるのかもしれませんが(クラウドファンディングなど?)、令和日本のテレビ放送もきっと昭和平成時代とは違った歩みを刻んでゆく過程にあるがゆえに、もう新作はあり得ないだろうという寂しい感慨を抱いています。

21世紀になってからの世界名作劇場全三作のうちの第二作目の全52話をようやく見終えました。

題名は「ポルフィの長い旅」。原作は1955年に出版された国際文学小説受賞作品。物語の舞台は、世界名作劇場としては異例の第二次世界大戦後から少しばかり経ったころ。おそらく1950年代。

合計全26作あるとされるシリーズの記念すべき第二十五作目ということで、声優陣に過去の作品で活躍された懐かしい声優さんたちに出会えて、また実写なども交えた最新デジタル技術による美麗な画像も目の保養でした。

世界名作劇場といえば、

  • 孤児

  • 働く子供

  • 主人公に寄り添う動物

  • 素晴らしい音楽

などが思い浮かび上がります。

わたしの思い浮かべる世界名作劇場のすべてが「ポルフィの長い旅」には詰まっていて感無量でした。

でも原作からかけ離れたロードムービー的な展開をさせたことは賛否両論でしょう。最終話の終わり方はいささか不満の残るものでした。でも最後まで観終えることができて、本当によかったと思います。

以下はいささかネタバレ的なわたしの感想と考察です。

全ては語りませんが、何も知らぬまま、白紙のままでこの名作を楽しみたいと言われる方は、読むのはここまでにとどめておいて下さい。

わたしは原作の名すらろくに調べもしないで見始めて、長い旅の始まりに、大変な衝撃を受けました。

2008年の「ポルフィの長い旅」

さて2008年のアニメで、インターネットがブロードバンド化される前のこととはいえ、インターネット上でリアルタイムに視聴後の感想などが発表された作品。

SNSなどはなくとも、ブログなどを多くの方が立ち上げていた頃でした。かつての優れたサイトはいまでも検索すれば閲覧可能。いつくかを覗いてみましたが、この「ポルフィの長い旅」はいささか評判がよくないですね。

ひとつは本作放映の三年後の2011年の東日本大地震と津波のため。

恐るべき自然災害と遭遇するポルフィの体験は、フィクションの世界を超えてリアルなものとなりました。ポルフィのような孤児が実際に数多く生まれてさまざまな悲劇がリアルになってしまったのでした。

きっと震災体験をされた方には見るに辛い作品。

でもそうしたことは本作が製作された2008年においてはあずかり知らないこと。問題は世界名作劇場ならではの原作からの逸脱があまりにも大きなこと。

わたしは原作を手にしていませんが、インターネットから仕入れた情報によると、アニメ「ポルフィの長い旅」は原作の「シミトラの孤児たち」とは設定を借りてきたというほどにしか似ていない物語なようです。

原作との比較原作を読んでいない私が行うのはおこがましいことですので、その点には触れませんが、アニメを見ていて面白いと思ったのは、「ポルフィの長い旅」は徹底的に旅が主題であることです。

離れ離れになった妹を探すことが旅の目的ですが、どこかアニメは旅を描きたいがために作られた物語のようなのです。

旅をして別の街を訪れて、知らない人と出会い、また別れてゆく。

まるで大きな繋がりのある長編小説を読んでいるというよりも、いろんな物語の並べられた短編集を読んでいるような感じなのです。ですので途中の数話を飛ばしても物語がわからなくなることはあまりないことでしょう。

ですが、いまさら「ポルフィの長い旅」の問題点をあげつらっても無意味ですので、全52話の長い物語であるロードムービーとしての「ポルフィの長い旅」の魅力を語ってみましょう。

全52話中の半分以上で主人公ポルフィは孤独な旅の途上にあるのです。

こういうロードムービー的な世界名作劇場作品には、「ペリーヌ物語(1978年)」や「母を訪ねて三千里(1975年)」という大先輩が存在しましたが、ポルフイはマルコのように旅芸人の一座と一緒になることもありません。彼と共に旅してくれるのは、口を利かないフクロウのアポロ一羽だけなのです。

ロードムービーの魅力とは?

ロードムービーが面白いのは、物語の全てが含まれているから。

物語を書く基本形というものがあるのですが、ご存知でしょうか。

映画にもなった「指輪物語」The Lord of the Rings のJ・J・トールキンは、物語とは

行きて帰りし物語 There and back again

であるとホビットThe Hobbitにおいて定義しています。

主人公ビルボの冒険譚は、There and Back Again, a Hobbit Holiday と名付けられていますが、これこそが物語の全て。

つまり、主人公が故郷を離れて冒険に出発して、そしていろんな出会いを体験して、最後には家路につく。それが物語。

音楽のソナタ形式では、ハ長調で始まった音楽はヘ長調や変ホ長調やイ短調などのいろんな調性を通り抜けて、最後にはハ長調に辿り着く。

最後にホームに帰らないと物語としては不安なものになる。だから「行って帰って来る」が物語の定型なのです。

我々が物語を読んで、または観て、ハラハラドキドキするのは旅の過程、幸せだった場所や時間から離れて、ある目的のために生きてゆく。それが面白い。

物理的に同じ場所で、自分の境遇に変化が生じて、その変化をあじわうのもまた、物語の教科書的な形の中にあるものです。

1985年の「小公女セーラ」は、お金持ちのお嬢様が一文無しとなるも、いじめと周りの悪意と戦い、最後には再び、ダイアモンドプリンセスの地位に返り咲くのです。

さて、「ポルフィの長い旅」のポルフィは、文字通り旅に出るのですが、帰り着くところ、つまり旅の目的は、生き別れた妹ミーナと再び出会うこと。

でもこの作品の問題は、あまりに旅路を深刻なものとしてしまったこと(リアリスティックに描き過ぎ)。最後の感動的な再会を盛り上げるためだったとしても、ポルフィとミーナ以外の人たちは世界の無常の中に置いてけぼりにされてしまって、「ペリーヌ」や「マルコ」のような大団円は最終話にあまり感じられないのです。消化不良なエンディングでした。

悪人は悪人のまま、悲惨な境遇の人たちは悲惨の中にそのまま取り残されて、出会いと別れが人生だとしても、それを突き付けるだけで、幸せになるのは主人公たちだけというのは、鑑賞者に不満を残すものとなります。でも、それもまた、作品のメッセージなのかも。

前年の「少女コゼット」の改変は、原作者ユーゴーの意図した結末をも否定するといった大胆なものでした。でも視聴者はあの変更に晴れ晴れとした想いを持ったのだと思います。

具体的には、ジャン・ヴァルジャンを追い詰める刑事ジャベールは死なず、マリウスより大金をせしめてアメリカへと渡って奴隷貿易商となるはずの悪人テナルディエは逮捕されて、改心の機会を与えられ、幼いコゼットを虐待したテナルディエ夫人は獄中死せずに娘のアゼルマと共に出所して回心する、といった具合です。

ジャン・ヴァルジャンが市長を務めたモントルイュ=スュール=メールの街は、市長を辞めた後には、原作では再び寂れてしまうことになっていますが、アニメでは後継者のアラン青年によって善政が保たれるのです。

アニメ「少女コゼット」のテナルディエ。
アニメでは小悪人といった趣ですが、原作においては、より残忍でずっと狡猾な男。

こういう改変は視聴者にきっと喜ばれたはずです。

でも「ポルフィの長い旅」では、ポルフィの出会う数多くの不幸な人は不幸のままであり、時にはポルフィによって救われますが、世界は苦しみに満ち得ているといったポルフィの悟りを導くために存在しているかのよう。

イタリアの暗い悲惨な旅の体験、そしてギリシアから大事に持ってきた両親の形見を喪失して、大切な友さえも失うポルフィ。

レ・ミゼラブルの原作を読むと、テナルディエがアメリカに渡り、さらなる悪事を重ねてゆく現実が書かれているのですが、ポルフィの旅の中で、そうした現実を思い起こしました。でも前作「少女コゼット」には描かれなかった、無慈悲な世界の現実が本作に描かれたのだともいえるのかもしれません。

ポルフィが最後に帰り着くところは、最後の家族である妹のところ。

物語はきちんと起承転結の決まり通りに締めくくられます。でも結末はどこかビタースウィートなハッピーエンド。

あなたはどう思われますか?

まだ見ていないと言われる方には是非とも見て頂きたいアニメ作品です。もしかしたら子供には分らない、大人のための寓話だったのかもしれません。

12歳のミーナへのドアの向こう側の強姦未遂など、ほのめかされているだけだとしても、大人ならば何が起きているのか分かるはずです。女優崩れの娼婦らしい女性のポルフィとの同居と歪んだ愛のカタチ、やはり年下のポルフィを慕う少女アレッシアのポルフイへのキス。子供ではわからないこともたくさん物語には織り込まれているのです。

ローティーンの見たロードムービー

世界にはたくさんの優れたロードムービーが存在しますが、なぜだか子供の視点から描かれた作品が多いように思えます。または子供に準じるような純粋な視点を持つ大人。

サヴァン症候群の男性と旅する「レイン・マン」とか、リドリー・スコット監督の「テルマ&ルイーズ」とか、邦画では仲代達矢主演の「春との旅」とか。

きっと知らない世界を我々もまた観てみたい。そのときに子供や世間知らずの若者だとかの視点から世界を見ると、見慣れた世界も新鮮に見えてくるものです。名画「スタンド・バイミー」も旅して死体を探しに行く話。

人生そのものが旅なので、ロードムービーほど作りやすい映画はないのでしょうね。

世界名作劇場の集大成

「ポルフィの長い旅」の翌年にもう一作、作品が作られて、世界名作劇場は三十年以上にもわたって長い世代の日本の子供たちに多大な影響を与えた日本アニメにおける金字塔としての歴史的役割を終えるのです。

わたしの小学生の娘が「少女コゼット」という作品を大変に気に入り、彼女と一緒に三度も全52話を一緒に見たものでした。英語ネイティブの彼女には、よい日本語の勉強になりました。

いまこうして「少女コゼット」の次作である「ポルフィの長い旅」を観終えて、「ポルフィの長い旅」には「少女コゼット」には描かれなかった、あえて割愛された現実世界が描き出されたのではないかなとも思っています。

こき使われるワーテルロー亭のコゼット

「母を訪ねて三千里」の10歳のマルコは小学生でしたが、「ポルフィの長い旅」のポルフィは三つ年上の中学生。見えてくる世界も違うし、世界は善意ばかりで旅する彼を暖かさばかりで迎えてはくれませんでした。

「ポルフィの長い旅」もまた、Les Miserables(悲惨な人々)の一部だったのかもしれません。

「少女コゼット」は原作のユーゴーの描いた悲惨さを和らげて作られたがために、ポルフィには第二次世界大戦後より10年しか過ぎてはいない世界の悲惨が赤裸々に描かれていたのではとさえ思えます。

「ポルフィの長い旅」とはそのような作品だったのではと、改めて本作を高く評価します。

次は世界名作劇場最後の作品である「こんにちはアン」を観てみたいです。

「ポルフィの長い旅」主題歌

最後に素晴らしい主題歌をどうぞ。この歌の歌詞の中に、この物語の全てが詰まっています。名曲ですよ。

まわれ まわれ 時の風車
また 出会いと別れ
夢は そしてあきらめぬ限り 続いてゆく

また、劇中で何度も聞かれる、妹ミーナへの想いを込めた寂しげなメロディ、とても印象的で忘れ難いものです。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。