ナポレオンとクラシック音楽 (7): ナポレオン・ボナパルト頌歌
フランス革命の混乱を収束させた若きナポレオン・ボナパルト将軍は、貴族の世界が市民の世界へと変容してゆくであろう新時代を夢見た若者たちの憧れの的でした。
ドイツのベートーヴェンは自由と平等と博愛の精神の象徴としてのナポレオンへの敬意ゆえに「ボナパルト交響曲」を作曲しようとさえしたのですが、ナポレオンが皇帝位に就く野心を露わにしたことを知るや、献呈する予定だった交響曲の最初のページの献呈文をペンで書き破って、「英雄の思い出のために」と、交響曲の副題を改めたのでした。
Sinfonia grande (大交響曲)の下に、おそらくイタリア語でper Bonaparteと書かれていたであろう箇所は破られています。
ナポレオンの皇帝位就任に幻滅した若者は、ベートーヴェン一人ではありませんでしたが、同時に平民から皇帝位に就いた皇帝ナポレオンに憧れる若者も数多くいたのです。
ですが、ナポレオンはロシア遠征の失敗に続いて、ライプチヒ諸国民の戦いで敗れ、連合国包囲網の中、パリを奪われ、フォンテーヌブローにおいて敗北を認めて、フランス皇帝位を降りるのです。
1814年4月のこと。毒を煽るも、アヘンは致死量には足りずに吐いてしまい、死ぬことはできなかったのです。
バイロンのナポレオン頌歌
ベートーヴェンよりも18歳も若いイギリスの詩人バイロン (1788-1824) は、ナポレオンのフランス皇帝退位決意に幻滅した若者の一人でした。
覇者である皇帝ナポレオンが死ななかったことに憤り(自殺未遂は公にはされませんでした)、Ode to Napoleon Buonaparte (ナポレオン・ボナパルトのための頌歌)という詩をバイロンは即興的に書き上げました。バイロンらしい情熱にあふれた言葉は、英雄への失望が格調高い英語で劇的に歌い上げられています。
褒め称えていないのに頌歌(オード)なのは、当然ながらバイロン一流のアイロニー。
なにゆえに名誉ある死を選ばなかったのかという憤怒が溢れているのです。
第一聯と第二聯はこのようなもの。
血を吐くような、激しい呪詛にも似た言葉はまだまだ続くのです。リンク先より全ての詩を読むことができます。
フランス皇帝位を退位して、故郷コルシカ島の隣にあるエルバ島の小領主になることを強いられたナポレオンは虎視眈々と起死回生の再起を待ち望みます。
老いて肥太ったブルボン家のルイ18世が王位に就きます。王政復古したフランスは革命前の状態に後戻りしたかのように、市民たちを失望させるのです。革命前の世界に今も生きている老いた王は、何事も忘れず、何事も覚えずと言われる始末。
ですので、エルバ島を脱出したナポレオンは凱旋するかのようにパリに再入城を果たします。
しかしながら、百日天下の後にワーテルローにおいて、ウェリントン公ウェルズリー率いる連合軍に敗北。
6万人もの兵士を無駄死にさせて、ナポレオン自身は南大西洋の孤島であるヘントヘレナ島に幽閉され、彼の地で6年後に51年の波乱万丈の生涯を閉じるのです。
死因は胃がんとされていますが、極度のヒ素中毒症状にもありました。
パリのセーヌ川のほとりに改葬されるために、遺骸が1840年に掘り起こされたとき、その姿は死んだときの状態がほぼ留められていたのでした。ヒ素は遺体をミイラとして保存するのに実用的に使用されていた物質でした。ヒ素には防腐作用があるのです。
遺髪などの遺体より検出された大量のヒ素は故意に怠慢な死を与えるためにナポレオンを監視する英国によって与えられたものなのか、生前よりナポレオン自身が服用していた薬のためなのかは不明。
ナポレオンは確かに稀代の英雄だったのかもしれませんが、戦場で敵味方を含めて、これほどたくさんの人間を死に導いた人物は、歴史上ほとんどいませんでした。
推定では200万以上の命がナポレオン戦争で失われたと言われています。
他にはモンゴル帝国のジンギスカンなどが間違いなく匹敵するのでしょうが、近世ヨーロッパにおいて、第二次大戦以前、ナポレオンこそが世界最大の極悪人という見方が支配的でした。バイロンの劇詩は、そうした愛憎半ばするナポレオンへの評価ゆえに生まれたものでした。
シェーンベルクのナポレオン頌歌
21世紀の現代において、ウクライナ戦争を引き起こしたロシアのヴラディミール・プーチンは、ナチスドイツのヒトラーに擬えられて、プトラ―などと呼ばれています。21世紀のヒトラーということですが、20世紀のヒトラー以前の最大の悪人はナポレオンだったのです。
ユダヤ人殲滅を命じたとされるアドルフ・ヒトラーの悪行が、ナポレオンのそれを上回ると呼ばれるようになるのは第二次大戦の後のこと。
1939年ポーランド侵攻以前、国内経済を立て直したイタリアやドイツのファシズム政権を資本主義社会以上に評価する声も1930年代にはあったというのですから、歴史評価の変遷は不思議なものです。
ちょうど、21世紀初頭のメディアがロシアを経済的に立ち直らせた、格闘技に通じたプーチンを面白おかしくはやし立てていたのと同じ構図なのでしょう。
クマに乗った上半身裸のプーチン大統領のフェイク写真は大人気で、いまでもネット上にあふれかえっています。私はあえてここには貼りませんが。
しかしながら、プーチンが言論の自由を弾圧して報道機関を封じ込め、ジャーナリストなどを秘密裏に葬り去っていたことも、きちんと報道されていました。
ヒトラーの時代にも同じで、当時の識者の多くはヒトラーの本質を見抜き、警鐘を鳴らし続けていたのです。
20世紀最大の作曲家に数え上げられる、オーストリアのユダヤ人作曲家アルノルト・シェーンベルク (1874-1951) は、ユダヤ人であるがゆえに国を追われてアメリカに亡命。
亡命先のロサンジェルスで1942年に作品41として発表した作品こそが「ナポレオン頌歌」。
バイロンの詩を、シュプレヒ・ゲザング Sprechgesang という、歌いと朗読を混ぜたような不思議な歌唱方法で歌わせたのです。
「話すように歌う」と言う意味なので、オペラのレチタティーヴォの20世紀的改良版ですね。
音楽はヘクサコードという音階に六音だけを用いる古い中世の技法を現代的に使用しています。
1942年にナポレオンの没落の詩に音楽を付ける意味はただ一つ。
ここで歌われているナポレオンとは、ドイツのヒトラーであり、徹底したナチズム批判の音楽がシェーンベルクの音楽なのです。
無調音楽で知られるシェーンベルクですが、朗誦されるバイロンの詩は、シェーンベルクの、耳に心地よくない壊滅的な音楽ゆえに異色を放つのです。
弦楽四重奏団とピアニスト、ナレーターという編成の音楽。
グレン・グールドとジュリアード弦楽四重奏団らによる優れた演奏などがたくさんありますが、この録音は英語の詩を聞き取りやすい、素晴らしい朗誦。
1942年にヒトラーの没落を予言したシェーンベルクは、1804年に英雄交響曲の第二楽章に葬送行進曲を配したベートーヴェンに通じるでしょうか。
音楽とは時代精神と共にあります。シェーンベルクの不協和音だらけの音楽はまさに第二次大戦中の不安の時代を描き出す鏡のような音楽だったのです。無調音楽は必然から生まれたのだとわたしは思います。
ちなみにバイロン Lord Byronは、次の言葉を作り出したことで知られています。ナポレオンは、きっとどんな小説をも超えた人物だったのでしょう。
ロマン派詩人バイロンは、リストやベルリオーズ、シューマンなどの十九世紀に活躍したロマン派作曲家に多大な影響を与えました。
バイロンの見た十九世紀とはどのような時代だったのでしょうか?
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