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同じ曲を600回書き直しただけじゃありません: ヴィヴァルディの生涯をめぐる映画

アントニオ・ヴィヴァルディの紹介を描いた映画

以前からずっとみていたいと思っていた映画を昨晩見ることができました。YouTubeでの無料動画ですので、HDな画質ではないロシア語字幕のついているものでしたが、外国の歴史映画らしさを堪能いたしました。

イギリスとイタリア共同制作のテレビ放送用のもので、2009年の作品。

ゴンドラが水路を行き交う水の都ヴェネツィア出身のイタリアバロック音楽の大家アントニオ・ヴィヴァルディの半生を描いた映画「赤毛の司祭 ヴィヴァルディ」。

ヴァイオリン協奏曲集「四季」でしか、一般的には知られぬ作曲家の人生を描き出した秀作映画でした。

結婚を許されぬカソリックの聖職者ヴィヴァルディの知られざる恋を中心に、愛を失い、劇場経営に破綻して終焉の地となるハプスブルク帝国の首都ウィーンへと旅立つまで。

18世紀の欧州の情景はとても美しいもので、素晴らしい目の保養になりました。

伝記映画としても、なかなかヴィヴァルディらしさが見事に表現されていたように思います。モーツァルトの「アマデウス」を見るような衝撃的なドラマはありませんが、ヴィヴァルディの音楽がどのように彼の生前に受容されていたかを目の当たりにすることが出来るのです。

同工異曲とは

クラシック通はしばしば、ヴィヴァルディの音楽の同工異曲性を揶揄しますが、あの時代においては立派な音楽を聴けるなんて体験は余程の王侯貴族ではないと滅多にはないもので、だからこそ後世の音楽家のように一曲一曲を個性的に仕上げるなんて必要はなかったのです。

アントニオ・ヴィヴァルディの何曲あるかもわからない膨大な量の協奏曲は確かに似通っていて、同じ曲を600回も書き直しただけと、同じイタリア人の現代作曲家ルイージ・ダラピッコラ (1904–1975) は馬鹿にしましたが、今では同工異曲という創作姿勢も意味深いのではないかなとも覚えます。

ヴィヴァルディの協奏曲は確かにほとんど同じスタイルで書かれていますね。よく聞き比べると楽曲展開パターンがワンパターンなのに気がつきますが、それでも同じような高い質の物を何度も作り上げることのできる職人芸ゆえのこと。

ある創作家は、誰が見ても一目でわかる作品の個性の違いを一作一作に与える一方、別の創作家は独自なスタイルを確立した後にはほぼ同じスタイルの「同工異曲」な作品を繰り返し作り出します。

創作の個性が尊ばれる世界では「同工異曲」は蔑みの言葉ですが、「同工異曲」であることが意味深いこともあり得ます。

生涯をかけて一つのテーマを追求し続けた人生姿勢とも言えるでしょうか。

交響曲作家ブルックナーの場合

 十九世紀には、アントン・ブルックナーという生涯をかけて同じような様式の交響曲を書き続けた作曲家もいました。でもそういう芸術家は実は珍しく、大抵の作曲家は新しいスタイルをどんどんと開拓してゆくものです。でもヴィヴァルディやブルックナーが求めたものは同じスタイルの洗練。似た曲ばかりでも一作一作ごとに少しずつ変容してゆくのです。馬鹿の一つ覚えにも見えないことはないですが、愚直に一つの道を極めてゆくとも言えるのでは。

こういう求道的な「同工異曲」は素敵です。

生涯をかけて、自分の信じるある何かを求め続けるのです。作曲家のみならず、画家でも、漫画家でも、ひたすら同工異曲を繰り返す人もいるものです。

でも初めてヴィヴァルディの音楽を聴く人には、ヴィヴァルディの新曲は斬新で素晴らしい。イタリアの青い空を思わせるほどに澄み切ったヴァイオリンの調べ。透き通るように悲しいフルートの音色。器楽曲ではない声楽曲の純真さ。

ヴィヴァルディを個性的なバッハや後年とモーツァルトと比較しなくてもいいですよね。ヴィヴァルディはヴィヴァルディとして素晴らしい。

現代におけるヴィヴァルディ需要の悲劇は、音楽は繰り返し聞かれるようになったこと。教会での演奏会でただの一度しか聴かれない音楽ではなく、録音で何度も彼の音楽は聴けてしまうですから。

18世紀には聴衆は同じ曲を何度も聴くこともなく、演奏会はまさに一期一会。ヴィヴァルディはある完成されたスタイルの作品を換骨奪胎して何度でも新曲として使いまわしができたのです。

昨日教会堂で演奏されたヴァイオリン協奏曲ハ長調も、次の日に少し形と色合いを変えてヴァイオリン協奏曲二長調としても、また翌週にフルート協奏曲ハ短調としても全然問題のないものだったのです。本格的な音楽などはめったに聴けるようなものではなかった時代でしたから。

そうした事情から、ヴィヴァルディはヴァイオリン協奏曲などを大量生産。でも同じ曲を繰り返し聞く人など誰にもできない。だから複数の曲が似ていても誰も気に留めない。むしろ似ていることで、これはヴィヴァルディ作曲なのだと理解されることに意味があった。

でも21世紀の今日、録音でヴィヴァルディ全集を聴くと退屈極まりない。ああまた同じとため息をつくか、ヴィヴァルディの音楽が大好きならばBGMとして聞き続けていれば、同じような好きな楽想とスタイルの音楽を永遠に聴き続けていられるともいえます。

ヴィヴァルディの声楽曲

器楽音楽で広く知られるヴィヴァルディですが、聖職者である彼には、たくさんの教会音楽の作曲もあるのです。

ヴィヴァルディの声楽曲では最も有名なグローリア。

冒頭の響きは自分の耳には全く幾つかのヴァイオリン協奏曲との既視感を覚えずにはいられませんが、これだけ聴くと本当に美しい。
 
19世紀以降の、作曲家の個性を聴くという文化が成立はしていなかった時代の音楽はこれでいいのです。

現代でも、音楽通ではない方は癒し系音楽を聴きたい、今は激しい音楽が欲しい、ロマンティックなムーディーな奴などとSpotifyやYouTubeのAIにお任せして音楽を探してもらうのでは。

18世紀の音楽の聴き方は似た感じで、音楽を聴くにあまり作曲家にはこだわらなかった。

メヌエット、次はサラバンドで、その次はジーグなどと、人々が拘ったのは音楽のタイプ(今でいえばバラードとかラップとか)やダンス。

次はコレッリにラモーにテレマンを聴きたいなんてありえない。誰が作曲したかなんてほとんど気にしかなかったはず(あなたは井上ヨシマサや秋元康を聞きたくてAKB48のビデオを見ないはず。目当てはAKB48ですよね、マニア以外は笑)。

歌劇場では贔屓の作曲家もいたでしょうが、作曲家以上に観衆は歌手を問題にして楽曲は二の次。

オペラアリアなんて歌手の凄い美声を聴くための道具でしかなかったと言いすぎじゃないような世界で、だから作曲家の個性など重要でないどころかあまり個性的だと聴き手を惑わして混乱させるので、ダ・カーポ・アリアなど誰もが分かるスタイルが決められていたものです。

いまでもポッポスで、AメロBメロにサビが来てまたAメロなんて単純なスタイルの歌をアイドル歌手なんかが歌いますが、ああいう予定調和が大切で、音楽作品よりもアイドル歌手を聴くために音楽を聴いてるようなもの。ならば作曲に個性などむしろ邪魔ですよね。分かりやすさが第一。

だからバロック音楽はスタイルを聴く音楽。バロック音楽は「アイドル音楽だ」と喝破された方がいましたが、まさに言い得て妙といえましょう。

同じ作曲家の音楽はみんな似ていることに意味がある音楽。

言ってみれば、いつも同じメロンパンが食べたい!みたいな感じ。

駅前のパン屋とバス停前のパン屋。

どちらも美味しいけれども、駅前のパン屋のほうがメロンの部分がカリカリで甘さ控えめ、しかしバス停前は安くてサイズが大きくてふわふわ、なんて感じ。

そして同じパン屋は同じパンをひたすら売るべき。一つ一つ手作りでも出来上がったパンは一つ一つがあまり個性的で違いがあるのは望ましくない。期待されている品物があるのだから。

量産されるべき作品。これがバロック音楽なのでは。

ヴィヴァルディの晩年

ゴンドラで有名な水の都ヴェネツィアの作曲家ヴィヴァルディは、やがて劇場のために作曲を始めて大変な人気を誇ります。しかしながら魑魅魍魎蠢く歌劇場。ある公演失敗から債権者に追われて故郷ヴェネツィアを夜逃げして、かつて贔屓にしてくれた皇帝レオポルト六世を頼って神聖ローマ帝国の首都であるウィーンへと向かうも、頼りにしていた皇帝はヴィヴァルディに庇護を与える暇もなく崩御。行き詰まった作曲家はかの地で客死してしまいます。

やがて彼の書き残した膨大な遺産である楽譜は諸事情により、ほとんどすべてがある修道院に封印され、やがては忘れ去られた作曲家となり、ロマン派全盛期の十九世紀には完全に忘れ去られた作曲家となるのです。

それらの封印された楽譜群が日の目を見たのはムッソリーニ率いるファシスト時代の20世紀イタリアで、百年以上の歳月を経て二十世紀に再び脚光を浴びた様は不死鳥のごとくですよね。

世界大戦後にヴィヴァルディの音楽はイタリアのみならず、世界中に知られるようになります。イ・ムジチという団体が今では誰もが知るヴァイオリン協奏曲集「四季」を録音してレコードとして大ベストセラーになったからです。

この凄い楽譜の行方を追うドラマは以下の本にミステリー小説仕立てで詳細に語られています。音楽に興味のある歴史好きには最高の読み物でお勧めです(音楽学者の手によって書かれた本ですが、万人向けのエンターテインメントな体裁に仕立て上げられているのです)。

そして、忘れられていたアントニオ・ヴィヴァルディは、一躍バッハやヘンデルと同格のバロック音楽の大作曲家の仲間入りするのです。

ですが、時代は音楽再生機の普及した20世紀。

音楽は何度も何度もLPやCDで好きな時に聞くことができて、しかもなお、彼の別の作品にも容易にアクセスできるというヴィヴァルディ生前と全く違った世界で、同工異曲な彼の作曲は現代においてはどこか居心地が悪いのでした。だからヴィヴァルディの現代における人気はどこか限定的。でもあのカンタービレに歌いまくるヴァイオリンの妙技が好きならば、ヴィヴァルディは今でも最高の音楽家。

バッハの深い内向性や、ヘンデルの男性的な力強さを求めたくなる日々ばかりで、人生はできているわけではないのですから。

赤毛の司祭ヴィヴァルディは、女子孤児院の哀しい人生を送る少女たちのために十年以上も数多くの協奏曲などを作曲しました。

女子孤児院のオーケストラと赤毛の司祭ヴィヴァルディ

ヴィヴァルディのオーケストラの演奏者はほとんど全て女性で、音楽も彼女らのために作曲されたものでした。あの天を駆けるような独奏楽器のソロがイタリアオペラのプリマドンナの超絶技巧なアリアを思わせるのも、女性のための音楽だったからでしょうか。

人生が悲しい時には明るいものを求めるものです。人生の明るさや楽しさを歌い上げるヴィヴァルディの音楽は、短調音楽でも決して寂しく悲しくなりすぎない。それが今の自分には深すぎるバッハよりも魅力的であるかもしれません。

そんな音楽には人はこんなふうに明るく楽しく生きるべきという思いが込められているのではないのかなと、最近は深読みをしています。「この世に悲しくない音楽なんてあるのかい」と呟いたショパンとは大違いな人生なのです。

ヴィヴァルディの音楽は「四季」しか知らないと言われる方は是非とも声楽曲やヴァイオリン以外の楽器のために書かれた音楽を聴いてみてください。きっとこれまでに知らなかったヴィヴァルディがみつかるはずです。

わたしが特に好きなのはピッコロ(ソプラニーノ)協奏曲、マンドリン協奏曲、そして知られざるオペラアリアの数々です。

Viva, Vivaldi!!!


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