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痛みを痛みとして発信することに、価値があると言い聞かせて

これから
痛みを 痛みとして 発信することに決めた

もちろん 恐れもある
公開する の ボタンを押すときは
心拍数が あがるだろう

それでも その考えに至った経緯を
今日ここに まとめる

作品を 作る時には
まず 人生の物語を聴く

初めて会う方の 場合は
「何か聞きたいこと ありますか」
と 先に質問を うながす

いきなり 自分の話をして
というのは ハードルがあると
そう 思うからだ

ある日のこと

細かい やり取りまでは
覚えていないのだけれど
その際に こう 言われた

「キラキラしているように 見える」

なるほど
自分の事を こうして 発信し
作品も 作っている

確かに そう見える側面も
あるのかも しれないが
衝撃が あった

こんなに もがいているのに

一方

同じくらいの タイミングで
真逆のことを 言われた

プロコーチの ぐっちさんでも
伝える時に 抵抗があったらしい

傷つけてしまうかも しれない と
僕に許可を 取ったのちに
こう 言われた

「痛みを 抱えているよね」

そうだ その通りだ
むしろ だいぶ 構えていたのに
すこし 拍子抜けした

そして 言われたことに対して
ある種 祝福されたような
そんな 気分になった

そうだよね 
やっぱり そうだよね

それほど 僕にとっては
痛みを抱える と言うことは
当然のこと だった

「キラキラしているように 見える」
「痛みを 抱えているよね」

この 認知の違いは
どこから くるのだろうか

正反対の 認知は
僕に 問いを投げかける

一通り 俯瞰をすると
答えは 見えてくる

伝えた 情報の量には
確かに 差はある

けれど そこは
決定的な 違いでは無い

きっと 違っていたのは
情報の 質だ

より 具体的に言うならば
痛み の 扱い方だ

そこに 違いがある

痛み については
noteの中でも 触れている

確かに 触れている 
のだけれど

表現としては どことなく
前向きな 質感がある

痛みを 痛みとして
書いてはいない からだ

痛みから 何を学んだか
痛みから 何を得たのか

そういう視点で 書かれている

そうなると あたかも
すでに 乗り越えたかのように見える

実際は まだ 
棘が 刺さっていたとしても

ぐっちさんが 僕にしてくれた
パーソナルプロデュース(*1) では

痛みを抱える 僕だからこそ
話を聴き 作品にする価値がある と

いままでに無い 価値の側面を
指摘してくれた

ならば

この言葉を 信じ
価値を 探求するために

これからは 痛みを
痛みとして 発信していこうと思う

この痛みは 
きっと 消えないだろう

刺さった棘は 
たぶん 抜けないのだろう

それでも 
前を向くことは できると
そう 言い聞かせて

*1 ぐっちさんの
パーソナルプロデュースは こちら



いただけたら、とてもうれしいです!サポートは、台紙となるマーメイド紙、絵に使う画材、額装、などの道具代に還元させていただきたいとおもいます。