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19. 藤原氏の藤原氏による藤原氏のための天皇

 天皇の歴史について知らない人が多すぎる。そういう私自身、鎌倉以降も明治になるまで右大臣、左大臣が連綿と続いていることを知らなかった。というよりもうすうすは感じていたが、今回調べてみて天皇の歴史は藤原氏の歴史であることを痛感した。

 藤原氏の藤原氏による藤原氏のための天皇と言ってもいい状況である。

 諸氏族が国王を支えていくというのがいかなる国においても常態であると考えられるが、日本においては古代(平安期)から藤原氏のみが国王を支え、時には傀儡としており、国王の私物化、国家の私物化の程度が著しい。

 藤原不比等によって大宝律令が制定されて、政治は左大臣、右大臣を首班とする太政官が担うことになったが、大宝律令および養老律令に基づく右大臣は文武天皇時代の阿倍御主人以来、明治にいたるまで二百七十四代、二百七十一人いる。(代数と人数が異なるのは還任があるためである)。その中で藤原氏の右大臣は二百五十三人(253/271)、元皇族である源氏(親王の子)の右大臣が十三人である。藤原氏と源氏以外の右大臣は十人しかいない。その十人とは藤原京の阿倍御主人、石上麻呂、奈良期に入っての長屋王、橘諸兄、吉備真備、平安期の大中臣清麻呂、清原夏野、橘氏公、菅原道真、鎌倉期の源実朝である。

 遺贈右大臣、江戸時代の武家官位としての右大臣、南北朝時代の右大臣は計上から除外した。以下の左大臣、太政大臣などについても同様である。

 左大臣については石上麻呂以来、明治にいたるまで百九十三人いるがその中で藤原氏の左大臣は百七十三人である(173/193)。元皇族の源氏の左大臣が九人である。藤原氏と源氏以外の左大臣は七人いるが、その七人とは石上麻呂、長屋王、橘諸兄、ずっと時代が下って足利義満、足利義教、足利義政、豊臣秀次である。

 律令制では左大臣、右大臣でも国政を牛耳るには十分であるが、藤原氏の権力欲はそれにはとどまらなかった。太政大臣、摂政、関白もほぼ独占しているのである。もともと太政大臣は皇太子レベルの名誉職であり、常設の官ではなかったが、平安時代になると左大臣、右大臣以外に官職が欲しい藤原氏は常設にしていった。
 
 太政大臣については奈良時代の藤原仲麻呂以来、明治にいたるまで九十九代九十八人いる。その中で藤原氏の太政大臣は九十二人である(92/98)。藤原氏以外の太政大臣は六人いる。その六人とは弓削道鏡、平清盛、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠である。

 さらに時代が進み、平安時代中期になると幼帝を立てて、幼帝を補佐するという名目でほぼ全権を握る摂政という官職を作り出した。律令にはない官職である(令外官)。

 平安時代の藤原良房以来、明治にいたるまでの間に五十六人の摂政がいるがすべて藤原氏である(56/56)。

 ちなみに摂政が登場した平安時代には三十三人の天皇がおられるが、そのうち十三歳以下の幼帝は十五人もおられる(15/33)。十歳以下に限定しても十三人おられる。

 最初の幼帝は清和天皇で九歳で即位している。以下、陽成天皇(八歳で即位)、醍醐天皇(十三歳で即位)、朱雀天皇(八歳で即位)、円融天皇(十一歳で即位)、一条天皇(七歳で即位)、後一条天皇(九歳で即位)、堀河天皇(八歳で即位)、崇徳天皇(五歳で即位)、近衛天皇(五歳で即位)、六条天皇(七カ月で即位)、高倉天皇(八歳で即位)、安徳天皇(三歳で即位)、後鳥羽天皇(四歳で即位)となる。古代史の世界では満年齢ではなく数え年で書くのが普通であるが、ここでは現代の年齢の数え方である満年齢とした。その方が実態を理解しやすいからである。

 このように幼帝が多くでたのはほぼすべての場合、権力争いのためである。平安中期には摂政として藤原氏が権力を握るため、平安後期には上皇として権力を握るために幼帝が立てられたのである。もともと律令制では天皇は君臨すれども統治せずという立場に置かれている。政治は右大臣、左大臣の太政官が行う建前になっており、韓国ドラマや中国ドラマで国王や皇帝が自ら政治を行っているのとは相当に異なっている。律令制度の天皇は「君臨すれども統治せず」の色彩が強いのである。したがって成人天皇の場合でさえ、統治的な行為は稀にしか行うことができない。

唐の制度と我が国の制度の違い

 しかし、幼帝となると完全に摂政が政治を行う。摂政に藤原氏以外の者がなったことはないので、政治はすべて藤原氏が行っていたと言っても過言ではない。国政の私物化であり、天皇の私物化である。どこに現人神がいるのか。

 天皇が幼少のうちは摂政として政治を左右できたが、天皇が成人になると、名目上、幼少天皇を補佐するという建前の摂政という官職は維持できない。そこで登場したのが、成人天皇を補佐するという名目で政治の実権を握る関白という官職である。これも勿論、律令にはない官職である(令外官)。関白以外に同じような職務の内覧という官職も作られた。摂政の他に関白を論じるのは屋上屋を重ねる感があるので、本書では関白については割愛する。

 また皇后、皇妃も藤原氏から圧倒的に多く出ている。皇妃についてはあまりにも数が多いので割愛するが、皇后については奈良時代の藤原安宿媛以来、明治にいたるまでに六十七人おられる。その中で藤原氏の皇后は四十二人である。皇族の皇后が二十二人である。藤原氏と皇族以外の皇后は橘清友の娘の橘嘉智子、平清盛の娘の平徳子、徳川秀忠の娘の徳川和子の三人のみである。

 以上、右大臣、左大臣、太政大臣、摂政、皇后のいずれを見ても藤原氏だらけである。一体このような異常な事態はどのような事情で発生したのであろうか。その原因を考えるのが本書のテーマであるが、藤原氏の問題を考える前に天皇制について検討する。(以上、執筆中の書き出し部分である)

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