ヌーヴェル・ヴァーグの伝説的女優、アンナ・カリーナが死去

【以下は仏「ル・モンド」紙の記事に基づく翻訳です。元記事のURL:https://www.lemonde.fr/disparitions/article/2019/12/15/icone-de-la-nouvelle-vague-l-actrice-anna-karina-est-morte_6022930_3382.html 】

ジャン=リュック・ゴダールの映画の役で特に有名なデンマーク出身の女優兼歌手が癌のために79歳で亡くなる。

「君は言葉で話し、私は感情で君を見る」。彼女は「気狂いピエロ」で口先だけで言い、悲しげな大きな目をジャン=ポール・ベルモンドに向ける。ジャン=リュック・ゴダールの永遠のミューズである女優のアンナ・カリーナは、12月14日(土)にパリで癌により死亡したと、彼女の代理人がAFPに日曜日に発表した。

デンマーク出身の大きな青い目が特徴の青白い顔の女優は、1960年代に後に夫となるゴダールの7本の映画に出演した。しかし、彼女は、決してそれに甘んじることなく、特にセルジュ・ゲンスブールの側で、魅力的な声で歌手としてのキャリアに身を投じた。

「アンナは、癌のためパリの病院で亡くなりました。彼女は自由で、ユニークな女優でした」代理人のLaurent Balandrasはそう明言した。彼によると、彼女は、夫であるアメリカ人映画監督のDennis Berryに看取られて亡くなったとのことである。「今日、フランス映画は孤児になった。レジェンドを失った」。Franck Riester文化大臣はそうツイートした。シネマテーク・フランセーズは、「深い悲しみ」を報せた。

ヌーヴェル・ヴァーグのアイコンである、アンナ・カリーナは、2018年のカンヌ映画祭で、ジャン=リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」の撮影中に1965年に撮影された彼女とジャン=ポール・ベルモンドの写真で71回目のポスターを飾った。アンナ・カリーナは、特に次のカルト的なセリフで、シネフィルの記憶の中で、無垢な自由人のイメージを守り続けるだろう。「私に何ができる?何ができるかわからない…」

映画作家と女優の間の映画の記録

冷たい母親、早々に亡くなった祖母、大好きな祖父の間で揺れたデンマークでの少女時代に、彼女は壊れやすいもろさを保っていた。未成年の彼女は、劇場の衣装係の母親から逃れるために、フランスで女優になるという目的でパリに行く。彼女は、遠洋航海船の船長の父親からわずか2通の手紙しか受け取らなかった。

彼女は、そこですぐに頭角を表し、ファッションモデルの仕事を始める。17歳の彼女は、Palmoliveの石鹸の宣伝に登場する。彼女は、本名をHanne Karin Bayerといい、高級婦人服デザイナーのココ・シャネルによりアンナ・カリーナと名付けられた。

ジャン=リュック・ゴダールは、彼女がパリに到着してから2年後の1957年にコマーシャルに出演している彼女を見つける。彼は彼女にジーン・セバーグとジャン=ポール・ベルモンドが出演している『唇によだれ』の小さな役を提案するが、彼女は断る。ゴダールは、ド・ゴール派により禁止される、アルジェリア戦争反対の映画、『小さな兵隊』の主役のために彼女を数か月後に呼び戻す。

撮影の終わりは、愛の物語の始まりを示した。彼らは1961年3月3日に結婚した。それにより、6本の映画、映画作家と女優の記録が生まれる。その中には、『女は女である』(1961年ベルリン国際映画祭の女優賞を獲得)、『女と男のいる舗道』(1962年)、ジャン=ポール・ベルモンド出演の『気狂いピエロ』が含まれる。

6年間、アンナ・カリーナは出演を止めなかったが、彼女は常にゴダールのお気に入りの女優であり続けた。1966年の『修道女』で最も美しい役の一つを彼女に与えたジャック・リベットを除き、他のヌーヴェル・ヴァーグの監督は、彼女を撮影していない。「私はジャン=リュックの妻でした。そのことにより、彼らはたぶん多少の恐怖を感じていました。」2人は1967年に離婚する。アンナ・カリーナは、ジョージ・キューカー、ルキノ・ヴィスコンティ、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ブノワ・ジャコと仕事をしたにもかかわらず、1人の映画監督だけに関連付けられている女優である。

彼女のキャリアには音楽も含まれる。Pierre Koralnik監督の音楽劇『アンナ』のために、セルジュ・ゲンスブールは、1965年にアンナ・カリーナに捧げる曲「太陽の真下で」を書いた。2018年2月に彼女は最後のアルバム『冒険する私』を発表する。

Anna Karina en quelques dates
22 septembre 1940 Naissance à Solbjerg (Danemark)
1957 Elle débarque à Paris
1960 Elle tourne son premier film avec Jean-Luc Godard, Le Petit Soldat.
1965 Pierrot le Fou, de Godard, puis La Religieuse, de Jacques Rivette
1967 L’Etranger, de Luchino Visconti
1967 Grand succès avec la chanson Sous le soleil exactement, extraite d’une comédie musicale écrite pour elle par Serge Gainsbourg
1973 Elle réalise Vivre ensemble.
2018 Retour sur le devant de la scène avec la reprise de Vivre ensemble et la sortie d’une compilation de ses chansons les plus connues
14 décembre 2019 Décès à Paris à l’âge de 79 ans


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