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37歳、失業中の生活で感じたこと

JICA協力隊調整員の雇用契約を終えた後、一旦エクアドルから日本に帰国しました。延長無しの契約満了による退職事務処理とハローワークへの失業登録が主な目的でした。JICAでは契約終了者へ就職斡旋も行っているようでしたが、どうやら私の場合は尋ねられることもなく「〇〇さんなら自力で職を探せますよね?」とあっさり言われました。

北九州市八幡西区のハローワークに登録して、さて何をしようか?まずは外国生活で染み付いたであろう癖を取るリハビリと思い図書館で読書、映画鑑賞、学生時代の恩師に連絡とって夕食などこなし、南米行きの往復航空券を予約して、自分で初めてノートPC(Sony VAIO)を購入しました。基本的に日本滞在は、ハローワークの失業認定日前後の日を含んだ1週間弱としてIT関連書籍の購入、読書、映画鑑賞、恩師との再会、中洲で一杯がパターンとなりました。

失業期間中の大雑把な目標は、IT関連の自己学習を行うことでした。1997年頃から日本でもADSLによるブロードバンド・インターネット環境が普及し始め、IT関連の技術がどんどん書籍で現れだしていました。エクアドルのキト市で働いているときは、なぜかJICA調整員事務所の同僚がJICAはインターネット禁止と言い出し、ネットサーフィンをできるような状況ではありませんでしたが、日本経済新聞から情報革命などと銘打った記事を多く読んでいました。帰国したのが1999年10月でしたからダイアルアップ接続のインターネットが一般的な時期でした。

当時は、このまま南米で生活を続けて起業できたらと漠然と思っていました。その一方で南米に居ては情報革命の波に乗り遅れるとの焦りもありました。その頃の頭の中は、機械工学と内燃機関の知識しかなく情報技術は、ほぼゼロでした。協力隊員からUnixのオリジナル・ソースコードを一切使わないクローンのオペレーティング・システム(Linux)の話を聞き、半分も理解できずに何かが凄いんだろうなくらいにしか分かりませんでした。その影響で最初に購入したIT系書籍は、カーニハン著「Unixプログラミング環境」で、この本から相当な刺激を受けました。装丁からくる直感で買ったのですが、後に名著だと知りました。

一度、グアヤキルの伝説の大先輩に雇用してもらえないか?と訊ねたことがあります。彼は笑いながら「お前は、何でもできると思って居るやろうが?」と言い出しました。「お前は優秀だから確かに何でもやれると思うな」、「でも、俺が欲しいのは船外機の修理しかできない奴や、それでしか食っていけない奴を雇いたいんやな」とやんわりと断られました。この言葉は記憶に深く残りました。必要とされるということはどういうことか?自問自答をしてたような気がします。

日本では失業中にアルバイトでも探そうとNHK受信料の集金人募集の面接に行ったことがあります。NHK北九州放送局でした。面接官が二人で片方は随分昔にニュースを読んでたアナウンサでした。私の履歴書を見るなり、二人とも笑いだして「〇〇さん、本気で集金人をやるんですか?」と行き成り質問されました。正直に「IT系の勉強がしたくて、どこかの学校に夜間通って昼間はアルバイトしたいと思っています」と答えました。すると「集金業務は片手間ではやれませんよ。全力でやるつもりであれば〇〇さんだったらできると思いますが、でもその気はないでしょう?」、「そうですね、海外特派員なんかの職があればやりたいんですが、」と言うと「そうですよね」とNHK求人票を調べだしました。「年齢が厳しいと思いますよ」と言うと、その個所を見つけた二人が顔を見合わせて「そうですね」と肩を落としながら返事しました。「〇〇さんの後輩も実はこの放送局で働いているんですよ」と言い出し、「ええっ後輩なんですか?先輩ではなく?」「そりゃそうですよ、あなたいくつだと思っているですか?」と笑いながら答え、もう一人の方が「いや、目標持って追いかけている人は気持ちが若いままだからね」と助け船。結局、片手間での勤務は止めた方が良いと親切にNHKのタオルが入った寸志の袋を頂き退散しました、、。

南米と日本の往復を7ヵ月繰り返し、南米では昼も夜も関係なく、Linuxをインストールしたノートパソコン内でウェブサーバを立ててクライアントのブラウザからアクセスしてHTMLで作ったページを眺めるようなことをしてました。その時はWindows98とデュアルブートの環境を構築してたのです。当時は世界中のLinux開発者のコミュニティで最新のドライバー情報などが公開されていましたからそんなサイトばかり読んでいました。日本にいる時は映画を観たり、居酒屋で食事してカプセルホテルに泊まるような日々を過ごしてました。

半年を過ぎたころから、もしかしたらこのままずっとこんな生活を送るかも、、と思い始めたり、いやそんなことは経済的にできる訳がない、失業保険もそろそろ給付が終わるだろうからとここでも自問自答を繰り返してました。空港の税関でパスポートの査証の印を見られ「お仕事ですか?」と訊かれ「いいえ、失業中なんです」と答えて変な顔されたこともありました。太平洋を毎月往復する生活は、格安航空券でも毎回ビジネスクラスへ自動的にアップグレードされ、いつの間にかアメリカン航空のマイレッジカードはプラチナになり、ダラスやヒューストン空港でのトランジットはVIPルームで休憩を取ってました。

ある時、福岡の公園のベンチに座って目の前を行き来する忙しそうなサラリーマンを見ていると、彼らはきっと必要とされているんだろうな~だから皆その期待に応えようと忙しくしているんだろうな~と漠然と思うようになりました。でも自分はどうか?誰か必要としてくれているのか?船外機修理はダメ、NHK集金人もダメ、起業しようにも経営なんて何も知らないから無理。社会に必要とされること、社会の経済活動に組み込まれること、これができないとただの傍観者になると、それも誰も気に留めない。公園の路上を清掃作業している人を見ていると、のどのところまで「箒を貸してもらえませんか?私も一緒に清掃させてください」と言いたくてたまらなくなりました。やはり社会に参加したいと強く思っていたと思います。これでは精神的におかしくなるなと思い、真剣に就職活動をしなければと思うようになりました。

当時、朝日新聞のインターネットサイトで求人検索のようなものを提供していました。キーワードとして「福岡」「海外」「商社」を入力してでてきたのが1社のみでした。そこへ簡単な履歴を書いたメールを送信すると翌日に「社長が面接を希望しています。来社できますか?」と返信がきました。私は「次回の失業認定日に帰国しますから〇月〇日頃ではいかがでしょうか?」と返信すると承諾されました。

面接では物静かな社長と雑談をした感じでした。大正時代から続く地場資本の古い会社の創業家3代目で個人株主筆頭の人でした。雑談の後、「で、いつから勤務できるの?」と問われ「すみませんまだ数社検討しているので」と即答を控えたのですが、後で聞いた話では私は必ずここへ就職するとその社長は言ってたようです。その通りになりました。住むところが無いと言えば、独身寮で良ければ自由に使ってよいと言われ、2000年6月1日より勤務を始めましたが初日は東京出張でしたから福岡空港が初出社の場となり東京支社の挨拶、月末には初めてのイスラエル出張へとでていくような多忙な日々が始まりました。

この社長(今は顧問)、結局17年勤めてグループ企業を退職した私に福岡に戻ってきたときは連絡するように言われています。グルメの彼に連れられていつも驚くほどおいしい食事をご馳走してくれます。人の繋がりは不思議な縁です。

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