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◯拷問投票282【第四章 〜反対と賛成〜】

 それからデートを重ねた。
 理子は明るい性格で、しかも頭がいい。読書が趣味で、いろんなことを知っている。『視点』という言葉をよく使っていた。物事をいろんな方向から眺めることができる視点の多さに自負があるらしい。胸のうちに秘めておけばいいのに、いちいち珍しい視点を披露してくれるところに、子供らしさもあった。
 他愛もない会話を繰りかえすうちに、佐藤がボケて理子がツッコむというパターンが形成されていった。
 身寄りのない理子は都内でひとり暮らしをしていた。家賃の重みに苦しんでいた。それならば、と佐藤の提案で、同棲することになった。
 お互いにそれほど不満が溜まることはなかった。成功だった。
 ふたりの関係は、出会ったときの衝撃的な事件を迂回して発展していく。まるで、あの夜の悲劇を、お互いに忘れてしまったかのように振舞っていた。だから、理子の首元にある十字架のネックレスの意味を、佐藤は聞けなかった。近くにいても、理子の心をどこか遠くに感じていた。
 ときどき熱く語ってくれる理子の言葉から、なんとなく心の奥を想像しているだけだった。
 理子は、ある日、言った。
「この世でいちばん悪いものってさ、わたし、正義だと思うんだよね。正義っていうのは武器なんだよ。最強の。嫌な人や、気に入らない人がいると、みんな、正義を利用して殺しにかかる。罪悪感は生じない。だって、正義だから。殺してもいい人がいる、傷つけてもいい人がいる、って正当化しながら、自分の心は傷つけずに、相手を苦しめてしまう。それはよくない。わたしは、例外として許容範囲を増やすんじゃなくて、原則に戻りたい。人を傷つけてはいけない、という出発地点に戻りたい。自分がやられたくないことは相手にもしてはいけない。たとえ相手が自分を傷つけたとしても、やり返さない。たとえ相手が間違っていたとしても、傷つけるような言葉は選ばない。どんな怒りが生じたとしても、絶対に発散しない。それができたら、わたしはきっと、わたしを傷つけてきたすべての人たちのことが、どうでもよくなる」
 その言葉になにが込められていたのか、本当のところは、佐藤にもわからない。少なくとも、理子が見えない巨大なものと格闘しているのは明らかだった。その姿がなによりも美しかった。
 もしも、そのとき、想像もできないような地獄に理子が追い詰められていることを見抜けていたのなら……。
 無意味な後悔だ。
 だって、もう、理子はいない。
 理子は、飛んだ。人生を終わらせるために。