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「知識」より「やる気」、「答え」より「知恵」

料理の仕事をするようになって来月で5年。節目なので、これまで考えてきたことを書いてみています。前編はこちら↓

■「知識」が多い方が先生?

授業に立つとき、「知識」だけでなく「やる気」「勇気」が増すといいなぁって思っています。

だって、知識(=情報)なら検索すれば出てくるんだから!知識が多いほうが先生という時代はとっくに終わってると思う。

といっても、先生業をしている側も、今はまだ、それを実感している人とピンと来てない人の差がすごく激しいとも感じます。頭でわかっていても認めたくない人も多いはずだし。

私の場合、大人の集まる教室ということもあり、小ネタやうんちくから調理技術まで、生徒さんのほうが詳しいということはいくらでもあるんです。私より詳しいことは教えていただく、と腹を括らざるを得ない。

さらに今はスマホがある。

質問されて答えられないと、生徒さんたちはスマホを取り出して目の前で検索し始めるんですよね。

昔かたぎの「教師」には耐え難いかと思います。だけど、それはうろたえたり、恥じたりすべき状況でしょうか。

調べてくれてありがとね~!その写真、みんなに見せてあげて~。いい質問ありがとね!と、むしろ喜ぶときが多いように思うけれど。なんならついでに、検索するときに自分がやっている工夫なども披露してしまうよ。

■「やる気」とか「勇気」がわいてくるか

エンパワーメントという言葉がありますが、

授業が、知識というパワーを振りかざす場じゃなくて、学び手にとってエンパワリングな場になればいいなぁと思っています。

つまり、内なるパワー、例えば質問してみよう、調べてみよう、やってみようという気持ちなんかが、わいてくるような雰囲気で…

あとは、調べたいとき、分析したいとき、自主練したいときに、自分でやれるようにサポートできているか。問題解決力を上げていくのもエンパワーメントだもんね。

生徒さんが自分でスマホで調べ始める空気って、そう考えると、悪くはない。むしろそれでいいんじゃない?って思うわけです。

だいたいね、日本で育った人はほとんどが、授業中、質問するだけでもすごく勇気がいるんですよ。学校教育がそういう雰囲気じゃなかったんだろうな、っていうのがひしひし伝わってくるもん。

馬鹿にされるんじゃないかって心配な気持ちも絶対あるでしょ、大人だし。

それを乗り越えて、勇気をふるって言葉を発してくださってるのを見ると、安心して、ここでなら質問してみようって思っていただくには…って考えちゃう。

■「答え」より「知恵」を

一方、学ぶ側も「答え(=知識、情報)」だけ求めるより「知恵(=判断力、対処力)」を養っていかないと、って思うことも多いです。

「レシピのサラダ油をオリーブオイルに替えていいですか」とか、よくきかれるんです。

それにYes/Noを言うなら「答え」だけを伝えることになるね。「何をしたいかによります」と私は答えています。

油の種類を変える狙いは何ですか?優先したいのは何?
味、健康にいい、調理のしやすさ、価格、インド料理らしさ、ほかの料理との相性、など…

実は、余ってるオリーブオイルがあって使いきりたいとか、現実的な理由のこともあるよね。毎日の暮らしのことだからそういうのも大切。

「~していいですよ」「~してはダメですよ」という「答え」より、「~したいならこうする」「~を狙うなら、ほかにこういう方法もある」と対処のしかたを一緒に考えて、その場にいるみんなで「知恵」を深めていく。

先生業って、もはや、知識を伝えるというより、そういうディスカッションの進行役をどれだけうまく(安心して発言できる雰囲気で、みんなの考えを引き出しながら)務められるかじゃないか、と思ったり。

■「問い」に伴走する技術

そういう役を果たすとき活きるのは、知識の多さじゃなくて、どれだけ判断してきたかの経験値だと感じています。

試行錯誤、手を実際に動かし、失敗し、考えながら積み重ねてきたもの。増やしてきた引き出し。得てきたひらめき。ワクワク感。

そういうのがあって初めて、生徒さんの問いを一歩引いて受けとめ、生徒さんの歩幅に合わせて、一緒に考えることができると思う。

「インド式ではこれが正しい」というのが知識、「私がしたかったことを実現するならこうするのがベスト」というのが知恵。何をしたいからどう対処するのかって視点がなかったら、知ってるから偉いみたいなマウントのかけあいにしかならないでしょ。

そして何より、できないこと分からないことが出てきたらラッキー!楽しいゲームのはじまりはじまり~っていう、「問う」ことを無邪気に楽しむ姿をお見せすることかな…

考えることに疲れてたり臆病になってたりするオトナにはそれだけでも効くような気がしています。

■身体技能としての料理

ただ、料理はスポーツや言語と同じで身体技能なので、からだの動きが追いつかないうちは(切ったり炒めたりと手を動かす経験が浅かったり、舌や鼻の分析力が身に付かないうちは)頭でっかちになりがちだとは思う。

疑問の持ち方も、それ考えてもあんまり意味ないかなー、優先順位低いとこだなーっていう変な質問をしたりする。笑

でも、そういう時期は、うちの教室の生徒さんたちの場合は1年ほどですぐ抜けていくことが多いから、私は気にせず見守ることにしています。

学生時代、恩師に「あなたは犬も歩けば棒に当たる式に良い質問をしますね」と指摘されたことがありましたが…

いつも鋭いM先生、さすがの名言!笑
そう、この子は実は見えてないなってことが、先生は分かってたんだよね。

料理じゃなかったけど、そういうもがく時期が私もあったから、目がふさがってるのに手探りする苦しさ、不安、それでも「どこかへ!」と念じて足を踏み出す恐ろしさと快感…分かる気はするんだな。

そして続けていれば、必ずトンネルを抜けられる瞬間が来るという確信もある。考えながらの調理を積み重ね、技術がだんだん追いついてくれば、頭と体のバランスがうまく取れるようになりますよ。

幸いなことに、そういうとこ、料理は他の身体技能と比べて成長が早いし、結果が見えやすい気がします。沸点が低いというか、使い物になり始める温度が低め。それなのに、その先には生涯をかけるに値する高み、深みとロマンもあるじゃないですか。だから大人のお稽古事とか、ふたつめ、みっつめの専門としてもお勧めだと思ってる。

「答え」だけをほしがる人は、いつまでたっても教えてもらう人。

「知恵=判断力、対処力」を求める人なら、料理だったらゼロからでも2年もやれば、たぶん体が頭に追い付いて、クリエイターとしてのスタートラインにも立てると思うんだけどな。どう思う?そうでもない?!あ。どうでもいい、か…笑

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