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石川九楊から書との向きあいかたを学ぶ

書道家や水墨画家とよばれる人たちがいる。筆に墨汁を含ませ、何かを伝える人たちだ。紙や陶器に言葉や絵で表現する。アジアで生まれた墨をつかった表現方法は、白と黒の二色のみで人に世界を認知させられるのだ。書道家ならぬ書家・石川九楊の個展へいってきた。

前提として石川九楊は肩書をもうけていない。今回の個展にも「石川九楊大全」というタイトルが採用されている。本人からの直接的な言葉ではないが、筆と墨を使っての表現からもあくまで書道ではあるのだが、九楊独特の意思があることから「書家」とつけさせていただいた。

本展では5つのセクションで展開されているのだが、私は4つの向きあいかたが読み取れた。言葉、濃淡、繊細、物語の4つだ。それぞれのセクションにはインスピレーションの源泉がしっかりと表現され、堂々と待ち構えていた。それぞれのセクションの本質をここに記す。

〈言葉〉からのインスピレーションでは、言葉になろうとしている記号のようなものが表現されていた。いわば、言葉以前の記号たち。ある時には使われていたかもしれない言葉に変化が生じ、うめきあい、うごめきあって、未知の記号が言葉に成ろうとする態度が伺えた。

言葉がなければ伝えたいときにしっかり伝わらなかったりする。表現の幅もより記号的になり、わかりづらく、ときには誤解もあたえてしまう。いろんな言葉たちは、時間をかけてゆっくりと、その時に使われる言葉になっていったのだ。そして、広がっていったのだ。

〈濃淡〉からのインスピレーションでは、距離感を指示されるように感じた。大きく表現されている墨の濃淡は、離れてみることで濃度が均一化し、近づいてみることで情報量が増えていった。面だった部分は幾重にも塗られて濃かったり、一度しか筆が通らず薄かったりした。

〈繊細〉からのインスピレーションは機械的にみえた。離れてみると半導体の集合によりデザインされた基板にしかみえない。近づくと、言葉であり、線の集合であり、記号の分散であった。2次元の言葉も3次元の半導体も、何かを伝えるためのコミュニケーション手段なのだ。

〈物語〉からのインスピレーションでは、詩のように想いを馳せた。日本には太古の昔から現代まで受け継がれている物語がある。源氏物語、徒然草、伊勢物語。読んだことがないのに、その時の在り方を人は想像できるのだ。

石川九楊のプロモーションには「筆跡から筆致と感触を伝える」とあった。そして、「ムカデなどの多足類の昆虫が動きまわるように、筆は媒介物の上で這っているのだ」ともいっていた。書くことへの執念と情熱、分析と理解は、『書』を通して令和に体現されていた。


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