うしろめたさの人類学
少林寺拳士としての自分は修練に限らず、うしろめたさ(なんとしたい事象と自分なりに定義)を起動し、境界線をずらしていく必要がある。
本を読み理解やマインドの枠組みを広げる。
遊びながら気付きを得る。
修練を通して拳士として強くなり、やるべきことを確立していく。
それらをnoteを使って言葉としてずらしていく。
うしろめたさもずらした境界線の中から感じられていく。
先日の修練の中で技が上手くいかなくて困っている人がいて技を教えてあげることで貢献できた。BBQをするなかで火起こしや料理を提供することで他者に貢献できた。読書をするなかで今まで見えてこなかった物事の見方がある。
境界線をずらすことで、気づきがあり、うしろめたさを感じられたなら、そのうしろめたさにアプローチしていく方法をとる。
今のところ感じているうしろめたさは、弱さ。
技を教えたくても教えられない。修練をさぼってしまう。という自分の弱さを克服するようにしたい。そして、できれば仲間とあって明るくなれるような克服の仕方をしたい。
その行為に拳士としての僕の、バランスを取り戻す公平さがある。
著書の言葉を借りて気づいたこと
追記:
本の感想を数人でシェアする場があったけれど、そこでの体験を通して、うしろめたい、という気持ちを大切にしたいと感じた。
自分がうしろめたく感じている気持ちはなんなのか、それはなんで感じたのか、その気持ちや事象をどうしていきたいのか、
その部分を数人、個人で深めていくと、うしろめたい気持ちが明るいものに変わっていくと感じた。
つながりとは、楽しい瞬間にある。成果も大事だけれど、楽しさも大事にしたい。
少林寺拳士として、うしろめたい気持ちが明るい気持ちに変わるところに、僕の目指す社会がある。